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【第3回】 「子子し」と「子めく」
平安古典でよく見る“子子(ここ)し”というのも、意味を知った時、カルチャーショックに近いものを感じたことばである。使い方はこんなふう。
「舞の姿や手ぶりがやはり良家の子弟は違う。この世界に名を得た舞の名人たちもたしかに実に達者だが、“ここしう”新鮮な美しさはどうも見せられない」(『源氏物語』)
あるいは、
「舞姫の容姿は、源氏の殿と大納言が用意した二人が優れていると称賛された。たしかに二人とも魅力的だが、“ここしう”可愛らしいという点では、やはり源氏の殿が用意した舞姫には及ばない」(『源氏物語』)
とかね。こんなのもある。
「(女君の返事が)“ここし”いので、男君は可愛いな、と思った」(『落窪物語』)
いずれも肯定的な意味であることが文脈から分かると思う。
漢字にすると“子子し”。意味は日本国語大辞典によると「子どもっぽい。おっとりしている。おうようである」。
似たような言葉に“子めく”があって、こっちは「子どもらしく見える。子どもっぽく見える。おおようでおっとりしている」。わたし的には、どっちも「ウブ」とか「初々しい」という意味にとったほうが通じやすいと思っているのだが。
これのどこがカルチャーショックといって、「子供=おっとり」という考え方である。子供って、おっとりしてるかなぁ。それどころか、せかせか気ぜわしいのではないか。いや、たしかにのろのろしているところはある。服を着るのも靴を脱ぐのもとろとろマイペースで、「早くして!」と叫んだことも何度もある。が、おっとりという感じはしない。と、子供を生み、今も育てている私は思う。
そもそも「おっとり」「おうよう」というのは肯定的な言葉である。が、「子供っぽい」というのは否定的な言葉だ。それらがなんで古典では、同じ言葉で表され、肯定的な意味を帯びるのか?
いやもちろん、「子供らしい」と言えば、あどけなさや可愛らしさといった子供の良さを、子供自身が発揮しているという肯定的な意味になる。「子供のようだね」と言えば、大人が子供の良さを備えているという、これもどちらかというと肯定的な語だ。しかし「子供っぽい」となると、子供あるいは大人が子供の属性である未熟さなどのマイナス面を帯びているという否定的な語となって、「子供じみている」となれば、子供のマイナス面に焦点を当てた、主に大人を非難するための語と言えよう。
いずれにしても、現代人には、子供に対して「おっとり」とか「おおよう」というイメージはあまりないと思う。少なくとも私の抱く子供のイメージは、がさつとかうるさいとか、ましなほうだと純粋とか、それと関連してだまされやすい、みたいな感じ。
ところが、平安文学では違うのだ。
よく似た“子めく”の使用例は、若い女を形容している場合が多く、“子子し”よりは「子供っぽい」という、マイナスなトーンを含んでいる気もするが、やはりどちらかというとプラスの意味に傾いている。『源氏物語』の光源氏は、まだ見ぬ末摘花を、
「洗練されてるとか知的といった性格ではないみたいだ。ほんとに“児めかし”くて、おっとりしているほうが可愛いに違いない」
と思っているし、宇治十帖の薫は大君の手紙の返事を、
「とても非の打ち所がなく、“児めかし”いので、惹きつけられる気持ちで」
見ている。
こうして挙げてみると、“子子し”“子めく”にいちばん近い現代語は「すれていない」ということばになると私は思うのだが、“子子し”“子めく”の根底には、読んで字のごとく「子供」の概念があるというのは見逃せないポイントだ。妙齢の女を「子供」で形容することが褒め言葉になる・・・。これは、現代ではちょっと考えにくいことではないか。
つまりこれらのことばの出発点である「子供」にまつわる考え方が、平安と現代とではかなり違っているため、正確に訳し出すことはできないのだ。平安貴族の子供の概念は、未熟というマイナスな意味よりは、フレッシュというプラスの意味に傾いている。
平安貴族が子供にこんなにプラスイメージを抱いていたのは、ひょっとすると、子育てのきつい部分は乳母などの他人任せで、自分で子育てしていないからではなかろうか。また上流夫人は多少、子供っぽいくらいのほうが、仕えるほうは気楽だし、一夫多妻の当時、夫や他の妻も気兼ねしなくて済んだというようなこともあったのかもしれない。
ことばというのが、社会状況とは切っても切れない「生き物」であると思うのはこんなときで、逆に「負け犬」とか「ニート」なんて語を、平安時代のことばに置き換えようとしたら、ムリがあるだろう。
ちなみに平安時代、未熟を意味することばは“をさなし”であって、語源的には諸説あるが、「長」・・・優れているところ・・・が無いという、子供とは無関係な説を私は採りたい。
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