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【第5回】 口つきども
英語に長く馴染んでいると「英語脳」になって、つい英語でものを考えてしまう。そう英語の得意な人はよく言う。が、そういう人が、翻訳が得意かというとそうでもない。頭が英語脳になっているので、それを日本語に置き換えるには、手間がかかるのだろう。
同じように、古典ばっかり読んでいると、「古典脳」になる。
自慢めいていて恐縮だが、私などはかなりの古典脳で、古典を読んでいても、古語で理解していたりするから、いざ現代語訳するとなると、はたと困ることがある。
“あはれ”とか“をかし”とかは、はなから覚悟しているからまだいいが、戸惑うのはこんなの。たとえば、
1 “若人ども”。こんなのは私の古典脳の中では“若人ども”のまんまで、訳されない。しかしまぁ、これは「若い人たち」と訳せば良いのだから簡単だ。
ところが、
2 “車ども”“めづらしきことども”“絵ども”“紙ども”“節会ども”。これも私の古典脳の中では“ども”付きのままだが、現代語訳するとなるとそれでは済まされない。しかも1と違って、いずれもただ「たち」を付けるだけでは訳せない。
さらに、
3 “御おぼえども”“口つきども”“心ばへども”となると、かなり古典度は高く、訳にも覚悟がいる。
というのも1,2,3どれも『源氏物語』からの引用だが、平安古典には、この手の名詞の複数形がたくさん出てくるのに対し、現代の日本語には名詞の複数形がない。つまり現代語では車は一台でも二台でも「車」なのに対し、平安古典では二台以上だと“車ども”になる。この点だけ見れば英語やフランス語のようなもので、世界的には実は名詞の複数形がない現代日本語のほうが特殊らしい。いつ頃から現在のようになったかは興味深いところで、専門家に教えてもらいたいところだが。
話を『源氏物語』の複数形に戻すと、それでも2は、「数々の」を付けたり、「台」とか「枚」を補えば処理できる。“車ども”は「何台もの車」、“めづらしきことども”は「めずらしいことの数々」、“絵ども”は「絵の数々」、“紙ども”は「何枚もの紙」、“節会ども”は「節会の数々」といったぐあいである。
が、3になると、2の方法だけでは処理しきれない。「前後の文脈」を踏まえて、ことばをいろいろ補わなくては現代の日本語にはならないのだ。
3はいずれも「絵合」の巻からの引用で、光源氏の養女の斎宮女御と、頭中将の娘の弘徽殿女御が冷泉帝の寵を競い、さらにはその父親どうしの主権争いを、優雅な「絵合」という遊びに託して物語る箇所だ。
で、まず“御おぼえども”は、“二ところの御おぼえども、とりどりに、いどみたまへり”という文脈。「ミカドの両女御への御寵愛はとりどりで、互いに競いあっていらっしゃるのでした」の意で、寵愛といった感情を表現する名詞にまで複数形が使われているのは現代人には驚きだろう。ここは「御寵愛」と訳すしかあるまい。
そして“口つきども”は、藤壺中宮の御前で、斎宮方と弘徽殿方の女房が二手に分かれて、それぞれ物語絵を出品してディベート合戦をする文脈で出てくる。いずれ劣らぬインテリ女房たちが“心心にあらそふ口つきども”を、藤壺が面白くお聞きになった。私としては“口つきども”という表現の面白さを活かして「思い思いに言い争う女房たちの口つき」にしたいところだが、意味的には「思い思いに言い争う弁舌」と訳したほうが分かりやすいだろう。
そして“心ばへども”は、女房たちが“かくとりどりに争ひ騒ぐ心ばへども”を光源氏が面白がって、「同じことならミカドの御前でこの勝負を決めよう」と言い出す文脈に出てくる。“御おぼえ”もそうだが、“心ばへ”という感情を表現する名詞まで複数形になるのは現代人には奇異に見えよう。「気持ちたち」「気持ちの数々」と訳して通じるならいいのだが、「人々の」を補って、「このように思い思いに言い争う人々の気持ち」として複数であることを表現するのが無難だろう。
ほかにも、“旅姿ども”“御厨子ども”“事ども”“有職ども”“上手ども”“禄ども”など、二つ以上のものや人や感情を表す名詞には“ども”が付く。
“ども”が付けば、複数あるのが分かるのはありがたい。が、現代語に訳すとなると、ややこしいことこの上ないし、原文の味ががくっと落ちてしまう。
いっそ古典脳の人が増えてくれれば、“ども”を訳さずに済むんだけどな。
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