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【第8回】 犬
去年の四月から犬を飼い始めた。
子供にせがまれたからだが、以前の私なら、誰に何と言われようと、犬など飼いはしなかった。気が変わったのは、七年前、歯の治療をきっかけに「口腔心身症」という心の病になって、アニマルセラピーのために猫を飼い始めたところ、動物に味をしめてしまって、「犬もいいかな。デカイのじゃなければ」と魔が差したのだ。
デカイ犬でなければと思ったのは、小学一年生の頃、学校から帰ると庭に大きな白犬がいて、追いかけられてスカートに噛みつかれるという大変な目に遭ったから。
以来、犬は大の苦手になった。子犬が門の前に捨てられていただけで、大泣きして、見知らぬオジサンに「助けて」としがみついたこともある。今のご時世なら見知らぬオジサンのほうがよほど危険だと言われそうなものだが。
さすがに長じると平気になってきたが、デカイ犬だけはまだ怖かったので、日本土着の小型犬である柴犬を飼うことにした。
飼ってみると、犬というのは猫に比べて実にバカだと感じた。物は破壊するし、何でも嘗めてしまって、下手するとうんこも食べてしまう。初めのうちは、散歩で豪邸の前を通りかかるたびに「ここに捨ててしまおうか。そのほうがシバ(うちの犬の名前)のためにも幸せかもしれない」などと考えていた。ところが一月以上した頃から、バカはバカだし、散歩も必要だし、猫よりは大変なのは違いないのに、猫とは違うけなげさや人懐こさ、犬の散歩で広がる世界の好ましさに、シバはなくてはならない存在になった。
であればあるほど、古典に出てくる犬と今の犬は、犬と呼ばれていても、ずいぶん違うと思うようになった。
古典の犬たちは一言でいうと、怖い。
平安末期の『今昔物語集』にはこんな話がある。ある家に仕えていた十二、三歳の少女を、隣家の白犬がなぜか目の敵にして噛みつこうとしていた。少女もこの犬さえ見れば、ぶとうとばかりしていた。やがて少女が病にかかったので、家の主人が死の穢れを畏れて彼女を外に出そうとしたところ、少女はこう言った。
「自分は隣家の犬に必ず食い殺されるだろう。この犬の気づかぬ所に出してください」と。で、少女の言う通りにしたが、ある時、犬がいなくなったので、人をやって見に行かせると、犬が少女に食いついていた。そして、
“女の童、狗と互に歯を咋違(くひたがひて)なむ死て有ける”
少女は、犬と互いに歯をむき出して食い違えて死んでいた。見た者は哀れんで、現世だけの敵ではないのだろう、つまり前世からの敵同士だったのかもと怪しんだという。
当時の犬は放し飼いで、道に落ちている人の糞を食べるばかりか、人の死骸や、死にかけた人を食っていた。同じく『今昔物語集』には、花山院の皇女と伝えられる上臈女房が、強盗の人質になって衣服をはぎ取られたあげく川に落ち、なんとか這い上がって人家に助けを求めたものの、聞き入れる人もなく、とうとう死んでしまったので、
“狗に食はれにけり”・・・犬に食われてしまった・・・と、ある。
また、鎌倉時代の『雑談集(ぞうたんしゅう)』には不信心な姥が、“隣の人食ひ犬”に手脚を噛まれて瀕死の状態になったとあるし、犬に噛まれた時のまじないなども載っている。
やはり鎌倉時代の『古事談』には、後三条天皇が“犬をにくませ給ひて”内裏の痩せ犬を“取り棄てよ”と仰せになったことから、都中をはじめ、諸国の犬まで殺されたので、天皇は驚いて、殺すのをやめさせたという記事も。
「犬畜生」という言葉があるが、どうもかつての日本の犬というのは、人を文字通り食ったり噛みついたりする、凶暴なケダモノというイメージがあったようだ。
犬が人を食うだけではない。昔は人も犬を食っていた。安土桃山時代、35年間にわたってキリスト教の布教に努めた宣教師フロイス(1532〜97)による『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田章雄訳註、岩波文庫)には、
「われわれは犬は食べないで、牛を食べる。彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と、ある。
「われわれ」というのはヨーロッパ人、「彼ら」というのは日本人をさす。私たちの先祖にとって、犬は食ったり食われたりする身近な家畜だったのだ。
その扱われ方も手荒く、平安中期の『枕草子』には、一条天皇のお気に入りの猫を追いかけたので、天皇の命令で半殺しにされた犬も出てくる。宮廷の飼い犬ですらこのざまなのだから、一般家庭の犬の扱われようは推して知るべし。江戸時代、徳川綱吉が生類憐れみの令を発したのも、それだけ犬が虐待されていたからだろう。
「犬」と、言葉こそ同じだが、その意味するところや、人々に与える印象は今とはまるで違っていたのだ。古典の「犬」は「犬」と訳しただけでは不足なのであって、犬畜生とか犬野郎とか訳したほうがいいくらい。正確には訳せないのである。今と字面は同じだけれど、実は意味するところがかなり違うというこの手のことばは「犬」以外にもたくさんあって、実はここにこそ古典の難しさと深淵さ、一筋縄では行かないところが秘められている。
で、古典の「犬」なのだが、むしろそれは、幼い頃の私の記憶の中にある大きくて怖い犬に近かったのではないか。
犬を散歩させ、犬友達との交流が日課となっている私ではあるが、シバが牙をむいた時、発情して私の脚にしがみついてきた時など、ふと怖かった小学生時代の犬の思い出がよみがえることがある。そんな折、シバの背後には、無数の古典の犬たちが見えるような気がするのだ。
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