|
【第14回】 みづはぐむ
象は臼歯が六回生え変わり、ワニの歯は何度も生え変わるという。人間もこれだけ長寿になったんだから、乳歯が永久歯に変わるだけじゃなく、せめてもう一度くらい生え変わればいいのに。
そんなふうに思うのは私だけではあるまい。
ところが。
昔の人はうんと長生きすると、永久歯が抜けても再び新しい歯が生えてきたの?と思わせるような表現が、古典にはある。
それが“みづはぐむ”とか“みづはさす”。
“みづは”とは、もともと瑞々しく美しい歯の意。古代の反正天皇の諱(いみな。生前の名)は“瑞歯別天皇(みづはわけのすめらみこと)”(『日本書紀』。『古事記』では水歯別命)といい、彼は歯が大きく、上下が揃って、歯並びが美しかったと記されている。ここから「瑞歯」は瑞々しい美しい歯を指すことが分かるのだが。
“みづはぐむ”とか“みづはさす”は、歯の抜け落ちた老人に再び“みづは”が生えてくる意で、極端に年をとるということらしいのだ。このことばを知った時、私は衝撃を覚えた。
凄いなぁ昔の人。そういえば縄文人は歯や顎がしっかりしていて、親知らずなんかもふつうに生えていたって聞いたことがあるが、千年くらい昔の人は、長生きすると歯が生え変わるのか。と、信じてしまったわけではなく、老いると子供返りするという発想は世にありこそすれ、その発想のままに、歯まで生え変わるという「考え方」が新鮮だなと思ったのだ。
たとえば、『大和物語』にはこんな歌が。
“むばたまのわが黒髪は白川のみづはくむまでなりにけるかな”
私の黒髪は白髪となり、白川の水を汲むまでに、“みづはぐむ”・・・瑞歯が生える・・・ほどに老いてしまったよ。
水を汲むというのと掛け詞になっているわけで、同趣の歌に、
“年をへてすめるいづみにかげ見ればみづはくむまで老いぞしにける”(『後拾遺和歌集』)がある。
年とって、澄んだ泉に姿を映すと、水を汲むほど、“みづはぐむ”・・・瑞歯が生える・・・まで老いてしまったというのだ。
また『源氏物語』には、主人公の光源氏が夕顔と密会中、彼女が変死してしまったので、光源氏の配下の惟光(これみつ)が急きょ葬送のために人目につかない山寺を探すことになる箇所があるのだが、その時、惟光は光源氏にこう提案している。
「昔つきあっていた女が尼になっております東山のへんにお移しいたしましょう。自分の父の乳母でございました者が“みづはぐみて”・・・瑞歯が生えるほど年とって・・・住んでおります」と。
以上、三例を読んでみて、いやぁ短命な人も多い当時、どなたもどなたも、歯が生え変わるんじゃないか?と錯覚するほど高齢で素晴らしいですなぁ、めでたいことではないですか、と、そんな感想を受けるかというと、うーん、これがどうも、こうしてサンプルを集めてみると違和感がある。
「長寿の相として、めでたいものとされた」(『日本国語大辞典』)という“みづは”が生えるほど長生きしたというわりには、吉祥感がないというか、自分はこんなに老いぼれでございますと謙遜しているような感じを覚えるのだ。
と、思って『日本国語大辞典』の“みづはぐむ”の項の「補注」に目を移すと、語義については「瑞歯(みづは)ぐむ」のほか、歯が上下三本だけ抜け残る「三歯組む」とする説、足腰の三重に折れかがまる形容「三輪(みつわ)組む」とする説などなど、諸説あって定まらないようで、要するに大別すると「瑞歯」を語義として老いを命の更新とする「寿派」と、「老衰」を意味する後ろ向きな「悲哀派」の二説があるのだ。
どっちの説をとるかによって、おめでたムードとよぼよぼムード、ずいぶんイメージが異なるが、辞書や古典の校注では、圧倒的に「寿派」を採るものが多い。
が、上に挙げた三つのサンプルを素直に読むと、いずれも老齢を、本人や身内が謙遜していて、それを相手が哀れんでいるという文脈だ。つまり伝わるニュアンスはむしろよぼよぼムードの「悲哀派」の語義説に近いものがある、という気がする。
『今昔物語集』巻第十二にはまた「“みづはぐむ(瑞歯)”に同じ」(『日本国語大辞典』)という“みづはさす”の例があるが、岩波古典文学大系の校注
(山田孝雄ほか)にはガーン、「老齢の形容で、関節ががくがくし、よろめきがちなさまをいうものと思われる」とある。瑞歯が生えて若返る的なイメージとは、あからさまに対極にある。
うーん・・・文脈的には、こっちのほうが正しい気がしなくもないし、歯が二度も生え変わるより、足腰が折れかがまるほうが現実的ではあろう。が、そんなふうに訳してしまうと、“みづはぐむ”“みづはさす”の“みづ”の語が帯びる、せっかく瑞々しくめでたい語感に、それこそ「水」を差すことになる。
やはりここは、語義をあまり厳密に追究するのはやめて、どちらかというと歯がもう一度生え変わるのだという、奇跡のような、老いに肯定的な説を信じて、とてつもなく長生きする様を指すのだと漠然と解釈して受け止めたい。だって誰しも老いて衰弱するなら、せめてことばだけでも、嘘でもめでたいほうを採りたいじゃないか。
と思うのは私ひとりではないから、しだいに使うほうでも「寿派」が勢力を増して、辞書でも古典の注釈書でも「寿派」が幅を利かしているのかもね、きっと。
|
|