イラスト:約8秒で画像が切り替わります【第16回】 男時(をどき)・女時(めどき)
  いくら一生懸命やっても何をやってもうまくいかないことがある。逆に、大して力もいれていないのに、すべてがとんとん拍子に運ぶことがある。
 こういう時、我々は「いま昇り調子なの」とか「旬なんだ」とか「時代の風が向いてきたぞー」、あるいは「運が悪い」とか「スランプだ」などと表現するものだが、古典にはこの手の現象に関して、とってもいいことばがある。
 それが、“男時”と“女時”。
 瀬戸内寂聴さんの新作『秘花』(新潮社)は世阿弥がテーマで、先日、新聞でこの文字を見たこともあって、あらためて、これは便利な古語だと痛感した。
 猿楽を能に発展させた観阿弥・世阿弥親子の息子のほう、足利義満に寵愛された美少年としても有名な世阿弥(1363〜1443?)が、『風姿花伝』で言ってることばである。
 世阿弥はいう。
“一切はみな因果なり” ・・・ すべてのことには原因があって、それが結果をもたらすという関係がある ・・・
 これだけなら、なーんだ、古くさい運命論かと思うのだが、彼はさらにいう。
「“時運” ・・・ 時の運 ・・・ というのがあることを心得るべきだ。去年、花の盛りなら、今年は花が咲かないはずだということを知るべきだ。短い時間のうちにも“男時”“女時”というのがある。努力にかかわらず、能にも、良い時もあれば、必ず悪い時もまたあるものだ。これは、人の力ではどうにもならない“因果”のしくみなのだ」
 世阿弥によると、“男時”と“女時”は、万事、ここぞという時に働いていて、
“一方色めきて、よき時分になる事あり。これを男時と心得べし”
というから、時運が向いてきたほうを“男時”、その逆を“女時”と称しているわけだ。 なんだか男女差別的な感じもするが、能動的にガンガンいっていい時が“男時”で、静かにじっとしていたほうがいい時が“女時”と考えれば、男女の生物学的な差異からしても、うなづけることばではある。“女時”は“雌 伏”などという語にも一脈通じるところはあろう。
 世阿弥のいう“男時”“女時”が面白いのは、“勝負神”みたいなものがいて、他の猿楽座や田楽座などの役者との競演が長引くと、“男時”は双方を行ったり来たりするから、
「男時が自分のほうに来たぞ!と感じたら、ここぞとばかり得意の芸を出せば、勝つ」
と言ってるところ。
 『風姿花伝』がなんだかサラリーマン向けのビジネス書みたいだといわれる(人が言っているのを実際に聞いたことはないが、少なくとも私はいつもそう言っている)のは、こんなふうに、大事なプレゼンの時こそ力を出しきれ!みたいなことが書いてあるからで、世阿弥が若い頃、美少年だったことを思うと、 その美の衰えとともに、こんな人生指南書を書かずにいられないほどの苦労を嘗めてきたのだろうか。と、しんみり気分にもなってくる。

 これだけなら、今のことばにも置き換えられる気もするし、流行りのスピリチュアルと処世術が合体したような感じも受けるが、“男時”“女時”が、“宿世” ・・・ 前世からの運命 ・・・ だからどうしようもないさ的な平安時代の運命論と一線を画すのは、それをきちんと認識して利用しろと勧めている点なのだ。ああ、やっぱり「戦略的」で、サラリーマンの生き方指南的ではあるのだが、世阿弥のいう“男時”“女時”は主婦でも学生でも当てはまるような、そして励まされるような理論を秘めたことばでもある。
 世阿弥は、あえて自ら“女時”というか、不運に身を置いて、勝とうということまで提案する。
 たとえば、他の能役者との競演でも、さほど大事ではない時はさらっと演じて、見物人に「ん?」と思わせておいて、いざ大事な猿楽の日には、趣向を変えて自分の得意な能を披露すれば、見物人の心に「これは意外だ」という物珍しさの気持ちがわいて、競演の勝負に勝つことがある。これは、男時と女時のシステムを利用したもので、
“この程悪かりつる因果に、またよきなり” ・・・ 前回、悪かったという原因があるからこそ、その結果、今度は良くなるというわけだ ・・・ と、いう。
 ただこんなふうに“男時”と“女時”を操れるのは、おそらく世阿弥が天才だからこそで、凡人にはなかなか真似できまい。できまいが、
「前に悪かったという原因が下敷きとなって、次には良い結果を生む」
という世阿弥の主張は、自分は“女時”にあるなぁと感じる人にとってはこの上ない励ましとなるのではないか。
 仕事も恋も家庭もなかなかうまくいかない。でもこうしてうまくいかないという状態は、やがては、色んなことがうまくいくための原因なんだよなぁと思えば、気もラクになるというものだ。
 “女時”の時はなるべくジタバタしない。黙々と必要な家のことやら勉強、事務的な仕事を処理する。いわゆる「充電」しながら、時が動き出すのを待つ。
“男時”が来たぞーっていうのは何となく分かるもので、そしたら、“女時”に溜めておいた力を発揮すればいいのだ。
 まぁ、いまは“女時”だなぁと知りつつも、ジタバタ動いて、さらに自分を窮地に追い込むのが私を含めた弱い人間の常だが、そのジタバタも含めて、やがてくる“男時”の下準備なんだよと思えるのがこのことばのいいところだ。って、ちょっと勝手な解釈かもしれないけど、許してくださるよね世阿弥さま。


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