アーサーの日本語つれづれ草 アーサー・ビナード
  【第21回】  お粗末お札 →バックナンバーに戻る








































 このあいだ池袋の鰻屋で「鰻重」を食べ、勘定を払うとき、財布から2000円札を出して、「えーと、すみません、これで・・・・・」と女将に渡した。「めったに見かけないお札ですね」というコメントと、500円玉のお釣りが返ってきた。
 それから爪楊枝をくわえて、家路をたどりながらぼくは考えた。大蔵省印刷局製造「弐千円」日本銀行券というれっきとした紙幣を出しているはずなのに、どうして「すみません」と謝ることになるのか?
 思えば、さっきの一枚は、きのう八百屋でスイカとソラマメを買った際、5000円札の釣り銭としてもらったが、たしか「これでいい?」と、おやじさんもぼくに確認した上で渡してくれたのだ。
 世にも珍しい「弁明を要するマネー」。ま、二千年問題"Y2K"を始め、パビリオンもサミットも豪華ツアーの数々に至るまで、ミレニアムにちなんだものはみな不発弾で終わってしまったので、2000円札も一応そんな冴えない世界的な流れの中にあった。しかし、よく見てみると、それでは片付けられない根本的な欠陥が、この紙幣の裏にはある。
 「裏」とは、つまり紫式部の顔と源氏物語の一場面が載っている側のこと。実をいうと、ぼくは2000円札のこのB面に最初、ちょっとした期待を寄せていた。「鈴虫」の巻が取り上げられると聞いて、ぐっと身近になったからだ。 わが家ではミレニアムの5、6年前からずっと鈴虫を飼っていて、にぎやかなリーンリーンが夏から秋までの日々の生活のBGMだ。にぎやかすぎて、睡眠の妨げになることもある。


 可愛いペットたちの祖先が端役をつとめる第三十八帖の「鈴虫」という巻では、五十路の坂にかかった光源氏の風流な夏から秋までが描かれている。もしかしたら、彼が女三の宮といっしょに虫の音をサカナに和歌を詠みっこするシーンが、お札に選ばれるのかなという、たわいない希望がこっちにはあった。けれど、大蔵省が取り上げた絵は「月の宴」で、源氏とその息子である冷泉院が久々に再開して向き合っているところ。国宝の「源氏物語絵巻」から借りたというが、真ん中から下まで縦書きのテキストがびっしりかぶさって、父も子も下半身がいわば耳なし芳一状態だ。絵巻物に詳しいわけじゃないが、今まで目にしたものは絵と詞書きと別々に、交互にきていた。こうした重ね合わせ方があるんだろうか。
 調べてみれば、オリジナルでは全然重なっていない。それどころかこの絵と、そこにかぶせられた文章とでは、まったく異なる場面が描かれている。父子が顔を合わせるのは巻の第二段だが、引用してある詞書きは第一段の「虫の音」も出てくる下りで、チグハグなのだ。
 デザイナーという代物は、とかく強引な組み合わせをやらかしたがるので、この程度のことでおさまっているなら仕方ないかと、許せるかもしれない。だが、ついでに古典文学全集の『源氏物語』を開き、お札を飾っている抜粋文を解読しようとすると、今度はいよいよ怒り心頭に発す。タイトルの「すゝむし」以外は、平安文学の専門家でもチンプンカンプンな文脈になっている−−。

   「十五夜のゆふ
   に宮おはしては
   たまひつゝ念珠
   あまきみたち二
   つるとてならす
   のけはひなとき
   いとなみにいそ
   るにれいのわ
   いとしけく」

 たとえ古典文学に通じていなくても、「何じゃこりゃ」とだれもが思う。それもそのはず、本来は−−
   「十五夜のゆふくれに 仏のおまへ
   に宮おはして はしちかくなかめ
   たまひつゝ念珠したまふ わかき
   あまきみたち二三人 はなたてま
   つるとてならす あかつきのおと みつ
   のけはひなときこゆ さまかはりたる
   いとなみにいそきあへる いとあはれな
   るにれいのわたりたまひて むしのね
   いとしけくみたるゝゆふへかなと」

 なるほど。1960年代に前衛作家のウィリアム・バローズが『裸のランチ』という作品で、新しい小説技法を実践した。それは「カットアップ・テクニック」と呼ばれ、簡単にいえば、いったん書いた原稿をチョキチョキ切ってゴチャゴチャに混ぜ、ランダムに並べ換えて一丁上がりとする方法だ。一時期マニアの間では流行ったけれど、大蔵省印刷局の公務員たちがそんな一昔のアバンギャルドの影響を受けていたとは!
 ただ、本当にやるならもっと大胆に、思いがけない対置が現れるようにせねばなるまい。行の下方を半分切り落とすだけでは、手抜き工事のカットアップというものだ。

































 『蜘蛛の糸』の始まりはこうだ。
 「或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。」
 でも、もし芥川龍之介のお札を作るとなったら、まさか「或日の事でご釈迦様は極楽の蓮りでぶらぶら御っしゃいましたている蓮の花は、にまっ白で、そ金色の蕊からは、い匂が、絶へ溢れてお」と引用しないだろう。
 では、いったいなぜ紫式部の文章を平気でズタズタにできるのか。
 「古文だからどうせだれも読めやしない」と、人々の日本語力を見くびってのデザインなのだろうか。それとも、ひょっとしてジェンダーも絡んでいるのかしら。だとすれば来年、新5000円札で樋口一葉がどんな祟り目に遭うかが心配だ。
 大蔵省のみなさんは、「御里が知れる」という日本語をご存じないのだろうか。


 偶然なことに、同じ2000年にアメリカでも、弁明を要するようなマネーが発行されたけれど、紙幣ではなくて新しい1ドルの硬貨だった。表側に取り上げられたのは「サカジャウェア」(Sacajawea)というショショーニ族の女性だ。19世紀初頭、ジェファーソン大統領が送り出した西部探検隊に、彼女は赤ん坊を背負って途中参加し、白人のマスラオたちの案内役と通訳をつとめて、大活躍した。
 コインでは、何事にも動じないサカジャウェアと、背中のかわいい坊やが二人そろって、こっちを振り返っている。25セント玉のワシントンのつまらない横顔に比べれば、温もりがあるし力強いし、どんなにいいか。しかし問題点は、大きさがその25セント玉と、大して変わらないということだ。
 「クオーター」という愛称で親しまれる25セント玉は、公衆電話やコインランドリーや自販機、米国のあらゆるコイン投入式の場で使われるのだ。その直径は約2.4センチ。そしてサカジャウェアの新参硬貨はというと、直径が2.6センチばかり。金属の色が少し違っていても、大きさがこれだけ近いと結局、みなクオーターと間違えて使用し、「何だ、コイツか」と気づいては財布へ戻し、新鮮さよりもややこしさが先行するに決まっている。
 2000年の秋に一時帰国したとき、ミシガンの雑貨屋で一個だけ釣り銭でもらったことがあるが、あとはまるっきりお目にかからない。2000円札以上のポシャりようだ。
 女性が載った通貨は、打ち出しても支持されないといった、一種の世の習い的な既成事実を、米国造幣局はワザとでっちあげようとしているのか? いや、ただの無能と思いたいところだが、実は1979年にも造幣局のおっさんたちが同じように、25セント玉に酷似した1ドル硬貨を発行して、見事失敗している。そのコインの表に取り上げられたのはスーザン・アンソニー(Susan B.Anthony)という、婦人参政権運動と奴隷制廃止運動のために果敢に戦った女性だった。そして、あまりにも煩わしいデザインに当時は、陰謀説までささやかれた。
 忘れたころに、ミレニアムのどさくさに紛れてまたやってくれやがったなと、うたぐられても仕方がないような二度目の失敗。
 早く女性の大統領が誕生しないかなぁ。



アーサー・ビナード  
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。90年に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。絵本に『カエルのおんがくたい』、翻訳絵本に『どんなきぶん?』(ともに福音館)、近著に『カーロ、せかいをよむ』『カーロ、せかいをかぞえる』(フレーベル館)など。
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