アーサーの日本語つれづれ草 アーサー・ビナード
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 「わたしはテレビが嫌いだ。そしてピーナッツも、同じくらい嫌いなんだ。しかしピーナッツを食べ出すと、やめられない」。
 天才監督オーソン・ウェルズは、後を引くテレビの魔力をそう語った。1956年10月12日付の『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の中で。


 ぼくは自分のピーナッツ中毒症を素直に認めていて、好きな食べ物を聞かれると、「落花生、中でも千葉産のヤツ、とりわけその甘味噌あえに目がない」などと答える。
 でも「テレビ」となると、さすがに好きとはいえず、「まだ日本語が解らないころは毎日見てメチャクチャ面白かったけど、聞き取れるようになったらあまりにくだらなくて・・・・」と、さも卒業したかのようにごまかす。
 実際は、依然として見始めてしまえば、つい夢中になる。それも日本語英語問わず、何語のテレビでも同様だ。
 近年の傾向として、気がつくとわが家のテレビに向かって、ひとり何やかやしゃべっていることがある。だいたいニュース番組の類いに吸い込まれてのときだが、相手に聞こえなくても、反論をぶっつけずにはいられないのだ。そしてそれが罵倒へとエスカレートする場合も少なくない。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた「テレビに耳あり壁の物言う世」が、到来しないことを願うばかりだ。


 腹立たしい歪曲報道の連続であっても、ニュース番組は、別の次元でけっこう楽しめる。たとえば、現場中継の無意味さを見届けるのは愉快だ。
 来日してこの13年の間に、ニッポンの津々浦々の「警察署前」をブラウン管で拝見してきたが、何が分かったかといえば、警察署は建築学の美的感覚とは無縁であるということ。それ以外の情報は、きっとスタジオのアナウンサーが話してくれたほうが、より明快に伝わったに違いない。「新しい情報が入り次第・・・・」といっておきながら、何も新しく入っちゃいないのに、またもや○○警察署前に突っ立っている○○さんに電波がわたされる。
 どうせなら、周りを少し散歩して原っぱに現在どんな花が咲いているか、小川で何という魚が泳いでいるか、ついでに水質でも調べてその土地ならではの今をキャッチしたらどうだと思う。画面に向かって助言もするが、○○さんは相変わらずシリアスな面持ちで、臨場感を何とか醸し出そうと、警察の発表を繰り返すのみ。


 警察署前ではない、町中のどこかからの生中継となれば十中八九、NHKが最も興味深い。
 というのは国営放送の体裁上、民間企業の宣伝をしてはならず、でも町に出ようものなら民間企業の看板が氾濫している。そこで現場の人間が知恵を絞り、培ってきたテクニックを駆使して、アナウンサーの頭や肩で看板が隠れるようにセッティングする。ちょうど「みずほ」が見えず、○○さんの右耳周辺から青い「銀行」だけがはみ出るアングルだったりすると、スタッフの努力がもろにうかがえる。ときには、背後にエキストラまで立たせられているのではと思えるショットも出てくる。
 情報を伝えるはずのテレビが、実は隠すための媒体にされていることを、親切に分かりやすい形で教えてくれる公共放送だ。


 一時帰国するたびに、アメリカのテレビをついいっぱい見てしまい、無意識のうちに日米比較の歯車が回り出す。尺度はぼくの感覚に過ぎないけれど、テレビのくだらなさの度合いにおいて、日米の差はほとんどないように思う。大宅壮一の「一億総白痴化」の評価を、人数だけ二倍ちょっとに増やせば、そのまま通用する感じだ。
 ニュースの歪曲度については、アメリカが先を行っている面もあるが、ひょっとしたら一番の違いは、一見表面的な点かもしれない――。コンピューターグラフィックスかボードか、どちらでビジュアルを見せるかだ。
 ある事件の経過や、話題に関連する統計や、グラフ、またはQ&A形式で何かを示す場合、アメリカのテレビ局はマルチ画面というか、CGで作った映像に切り替えることが多い。それに対して、日本ではアナウンサーが厚紙かベニヤ板でできた「フリップ」を手に、指をさしながら説明していく。途中で「めくり」と呼ばれる、フリップに貼られたシールをタイミングよく剥がしたりもする。
 このスタイルの違いを、知日派のアメリカ人に話すとたいがいは、 「ジャパンは IT 技術が進んでいるのに、生活にそれを取り入れるのが遅れているのだ」 と、知ったふうなコメントが返ってくる。そしてそれを聞けば、神妙にうなずく日本人も大勢いる。しかしそれは浅はかな考えというもの。
 日本のテレビの根底に、 IT バブルの一つや二つではかき消されない、世界に誇れる語りの文化たる紙芝居がある。だからフリップは今も健在なのだ、とぼくは思う。
 「ゆっくり抜きながら」とか「さっと抜く」とか、紙芝居のト書は今、テレビの「めくり」の演出に応用されている。紙芝居の土壌がないアメリカのテレビは、映画から受け継いだ「ワイプ」というのをたまに使うけれど、緩急よろしきを得た生身の人間がペローッと剥がしたほうが、どんなに効果的か。(とぼくが独りごちたとき、妻はアレも一つ一つゴミになるのよといった)。


 紙芝居のおじさんの拍子木が町に響きわたらなくなって久しいが、テレビの現場ではフリップを数枚、順繰りに見せて説明することを「紙芝居をやる」という。また、業界独特の区分けの一つに、「フリップ」の呼び名は民放に限って使用され、NHKでは同じ小道具を「パターン」と呼ぶのだ。どちらが正統かはともかく、ネーミングが分かれるということ自体が、紙芝居の落とし子の存在の大きさを物語っている。
 英語ではテレビのことを俗に“idiot box"というけれど、これも日本語に置き換えた場合、地方によってネーミングが分かれる?
 「あほう箱」、「ばか箱」、津軽なら「はんかくせ箱」とか。


アーサー・ビナード  
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。90年に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。絵本に『カエルのおんがくたい』、翻訳絵本に『どんなきぶん?』(ともに福音館)、近著に『カーロ、せかいをよむ』『カーロ、せかいをかぞえる』(フレーベル館)など。
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