アーサーの日本語つれづれ草 アーサー・ビナード
  【第32回】  夜行バスに浮かぶ →バックナンバーに戻る

アーサー・ビーナード氏











































青森行きに利用している弘南バスのラフォーレ号

 子どものころのぼくにとって、車に乗って本を読むというのは、かなり危ない行動だった。つい夢中になって、胃からの信号に気づかないまま読書を続けてしまうとCARSICK! 車酔いの壁に激突してアウトだ。
 妹にも少しその気があったので、自動車で遠出するときは、本ではなく外を見る遊びに興じることが多かった。例えば、窓外の看板に書かれた単語の頭文字をABC順に集め、最初にZまで到達した者が優勝する「アルファベット・ゲーム」。それから、他の車のナンバープレートが何州のものなのか、先に見た者がその州名を声に出して獲得、より多くの州を集めたら勝ちという「ライセンスプレート・ゲーム」。後者は特に、前方不注意になりかねないので、運転手(父親)の参加は禁じられていた。
 思春期が過ぎて、ぼくの三半規管と内臓はいつしか落ち着き、よっぽど下手な運転手でない限り、ほとんど車に酔わなくなった。今は車中で好きな本を遠慮なく読める。けれど、ひとつ気をつけないといけないのは、夜行バスの場合だ。

 ラジオの仕事のため、月に一度ばかり青森へ出かけるが、行きは東京駅八重洲口から出ている夜行バス「ラフォーレ号」。21:30発で、青森駅に着くのが翌朝の7:00頃。窓は最初から、マジックテープ付きの厚手のカーテンに覆われていて、出発後、15分もすれば車内が消灯となる。各座席には一応、「読書灯」と呼ばれる豆電球がついてはいるが、前かがみになって顔と本を近づけてやっと解読できる程度の、わずかな明かりだ。それに、ほかの乗客はみな最初から寝るつもりでいるので、自分だけ読書灯を点けていると、悪いような気がする。
 コートにくるまって目をつぶり、でも、すぐは眠れず、「あと9時間か」と、揺られながら思考もゆらゆら・・・・ 乗る前に読んでいたもの、聴いていた曲、やっていた仕事が、必ずといっていいほど頭に浮かぶ。何か引っかかる箇所があると、そこが繰り返し何度も再生され、少しずつ姿を変えていく。
 おもしろくない詩集を読んだあと乗車すると、どこが問題なのか、どう改造したらおもしろくなるのか、「大きなお世話添削」を延々やっている。うっかりと、新聞の腑抜け社説を読んでしまったときは「無駄骨反論」が、福島県に入っても続く。そしてやがて、本当に気分が悪くなっていく。

 このあいだの青森行は、直前まで夏目漱石の俳句のことを調べていた。夏の季語としてマクワウリが登場する。
   「吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜」
 これに初めて出くわしたのは、漱石の句集ではなく、手もとの国語辞典で「マクワウリ」を引いたときで、例文ならぬ例句として載っていた。気に入って英訳しようと思い立ち、ただ、一句だけではさびしいので、近所の図書館から『漱石全集』の俳句の巻を借りてきた。
   「蝙蝠や一筋町の旅芸者」
   「馬子唄や白髪も染めで暮るゝ春」
   「屠牛場の屋根なき門や夏木立」
 訳したい句がどんどん増えて、むずむずし出し、すると154頁に例のマクワウリが顔を出した。
   「吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜」
 おやっ、「ぽ」が「ぼ」になっている!
 「点々のあるとないとでは大違い ハケに毛がありハゲに毛がなし」という狂歌があるが、半濁音と濁音とでは、これまたずいぶん違ってくる。「ぽこりぽこり」で鑑賞して、ぼくは井戸のふき出る水の中に、マクワウリが一個、軽く上下しながら浮かんでいるのを想像した。ところが「ぼこりぼこり」とあれば、より重く、ちょっと乱暴に、というか不器用に上下している感じになり、複数のマクワウリがぶつかり合っていることも、十分考えられそう。それとも、もしや、水自体が「ぼこぼこぼこりぼこり」と、わいている音なのか? ぼくには「ぽ」のほうが、自然な表現に思われてしっくりきたが、作者とこっちとの間に百年分の日本語の移り変わりがある。「ぼこりぼこり」が、今とは微妙に違った振動を、漱石の耳の鼓膜に届けていたのか・・・・。

 上のような疑問が、バスに乗ってしまうと溶け合って走馬灯のように巡り出し、感情移入が深まって、揺られる自分もだんだんとマクワウリ状態に。また、隣の席の、恰幅のいい中年男性のイビキがいよいよ高まり、こっちの鼓膜に・・・・「ぐーすかぱーすか」よりも、「ぐーすかばーすか」のほうが、近いのかもしれない・・・・。おなかが「ぱんぱん」と、おなかが「ばんばん」とでは・・・・ 「ぴいぴい」と、「びいびい」とでは・・・・。気がつけば、車酔いへ入るインターチェンジまで、ぼくはもうきていた。

「ぽこり」と「ぼこり」、どっちが正しいのか。何としても、次の青森行までに、突き止めておきたいものだ。


アーサー・ビナード アーサー・ビナード  
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。90年に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞を受賞。絵本に『カエルのおんがくたい』、翻訳絵本に『どんなきぶん?』(ともに福音館)、近著に『カーロ、せかいをよむ』『カーロ、せかいをかぞえる』(フレーベル館)など。
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