アーサーの日本語つれづれ草 アーサー・ビナード
  【第36回】  だれが落としてもグー? →バックナンバーに戻る

青山周辺にて(2003年)






































きりんのカーロは読むのが大好き。


























雑貨屋で見つけた「グー」



 中学校でぼくは陸上部に入った。走り高跳び、棒高跳び、冗談半分で砲丸投げも試してはみたが、結局は長距離走者になった。
 背はあまり高くないし、腕力も大したことないし、足が特別速いわけでもなく、あえて取り柄といえば少し忍耐強いところか――思えばロングディスタンス・ランナーはごく当たり前の選択だった。けれど当時のぼくにとっては、もう一つ、死んだ父親とバトンタッチをするみたいな意味合いもあった。
 父がジョギングを始めたのは、ぼくが小学二年のころ。最初は出勤前の軽い運動のつもりだったのが、徐々に距離が伸びて、仕事が休みの日も走るようになり、そのうちデトロイト川沿いの緑地で開かれる六キロのレースに参加。翌年は十二キロ、次の年には二十キロのレースに挑戦して、もはやフルマラソン完走も夢ではない、と本気で考え出した。1979年の春から、父はそれまでになくハードな朝トレに励み、秋のデトロイト・マラソンを目指していた。が、その夏の終わり、父が乗った飛行機が墜落。マラソンの実行委員会からゼッケンが郵送されてきたのは、葬儀の三日後だった。
 父のランニング関連グッズがみんな長男のぼくのものになった。靴もウエアもサイズが大きすぎて、その後、陸上部に入って実際にトレーニングで使えたのは、靴下とリストバンドくらい。それから“Shoe Goo”というゴム剤も。
 走れば走るほど靴底が減る。分かり切ったことだが、長距離を走り始めてその摩耗ぶりに驚いた。セールで買った安めのランニングシューズとはいえ、かかとの部分が日に日に擦り減っていき、この調子ではワンシーズンももたず、小遣いに響きかねない。
 おそらく父もジョギング開始のころ、同様の驚きを覚え、そこで“Shoe Goo”を入手しただろう。見た目は超特大の歯磨き粉チューブといった具合で、蓋を取ってしぼると、飴色の半透明のゴム剤がじわっと出て、ツンとした匂いがする。靴底の摩耗が激しい箇所にそれを塗ったくり、一晩乾かしておくと固まって、次に走ったとき、靴の代わりにシュー・グーの塊のほうが擦り減らされることになる。
 いや、二回に一回の割合で、走り終わって靴底を見てみると、シュー・グーは跡形もなく消えている。ある薄さまでくると、ぺろっと剥がれてしまう。そうかといって、思いっきり厚く塗れば、走っていて違和感がある。ま、本当のところ、手間がかかる割には、効果が微々たるものだったかもしれない。無駄だと分かっていても、押し寄せる洪水の前で土嚢を積み上げずにはいられないという、そんな気持ちで繰り返しシュー・グーを塗っては乾かし、塗り直していた。
 中学校卒業のころには、その超特大のチューブがほぼ空っぽだった。高校の陸上部にぼくは入らなかったので、新しいシュー・グーを補充せず、それ以来一度も手にしていない。存在すら頭からきれいに抜けていたが、おととしの夏、キリンのカーロくんが記憶を呼び起こしてくれた。
 ジェシカ・スパニョールという絵本作家が2001年に英国と米国で出版した“Carlo Likes Reading”を、2002年に拙訳で日本語版を出すことになった。一見は微笑ましいほどシンプルなストーリーのようだが、主人公の子キリンが言語を身につけながら周りの世界を知っていく過程を、実にうまく描いている。絵に登場するもろもろのものに名札が付いていて、ピクチャー・ディクショナリーとしても楽しめる作りだ。
 最初の見開きで、カーロは自分の部屋を見回して“scarf”“ball”“books”“window”などなどと読む。それらを「マフラー」「ボール」「ほん」「まど」と訳すのがぼくの仕事だったが、おおかたは普通に置き換えれば間に合う単語だった。しかし中には、何と翻訳したらいいか迷うものもあって、その最たるものが“goo”。
 自分の部屋を読んでから、カーロはキッチンへ移動して朝ごはんを読む。テーブルの上に“apple”とか“jam”とかロールパンの“rolls”も置かれ、そのあたりは訳しやすかったが、テーブルの下を覗くと、灰色の塊が床に落ちている。名札によればそれは“goo”らしい。
 英米人はだいたい、這い這いしている時分に“goo”という言葉を、一種の幼児語として覚える。そのルーツは擬態語だという説があるが、こってりした「オートミール」を意味する“burgoo”の短縮形とする辞書もあり、また「糊」の“glue”との関連も考えられる。幼児語だけでなく、大人でもさまざまな場面で使っているけれど、その正体が何ぞや、改めて考えると定義しにくい。ドロドロの液体か、グシャグシャの固体か、その中間の半固体状態で粘り気のあるもの、ともかくベタベタあるいはヌメッとした物体を“goo”と呼ぶ。
 ときには日本語の「ばっちい」に近い雰囲気がある。でも、必ずしも汚いとは限らない。顔に塗るベトベトしたクリームとか、髪に塗るポマード、とろみのあるソースにだって使える。ドーム球場が増えた現在は、野球の話で耳にすることがほとんどなくなったが、昔だったら雨の後の試合で、例えば走者がフルスピードでサードを回り足が「泥で滑って転んだ」場合、“He fell in the goo.”と表現した。また比喩的に、べたつくようなお世辞やおセンチを“goo”とからかったりする。
 のみならず、靴底に塗ったくった“goo”もあったんだ・・・・・と頭の中にあるすべてをリストアップして、それでもカーロのキッチンにあるものの和訳が見つからない。「ネバネバ」、「ベトベト」、「ヌルヌル」、「ドロッ」でも、間違いというわけでもないが、どれもなんだか絵にぴったり合わない。二、三日悩んでから、カリフォルニアの妹に電話して、「キッチンの床にgooと呼べるものが落ちていることってある?」と聞いた。
 「しょっちゅう!」と返ってきた。四歳の長男がプリンをペチャッとこぼす。二歳の次男はオートミールをボチャッ。飼い犬は家の中で粗相をすることはないが、たまに腹を壊してゲロを吐き、すると子どもたちがそれを指さして“Goo!”という。「だれが落としたか、もう判然としないくらいいろんなものが落ちている」。
 それからこんな話も。長男の通う幼稚園で毎週、何かテーマを決めてそれにちなんだ遊びをやったり、関連の本を読み聞かせたりする。「楽器」「ハロウィーン」「野菜」「乗り物」とバラエティーに富み、中でも子どもたちに大人気だったのは、夏休みに入る前の週の、庭でいっぱい泥遊びをしようというテーマだ。名付けて“Muck and Goo Week”。訳せば「ヌメヌメドロドロ週間」か。いつものジャングルジムとブランコと砂箱に加え、泥池や泥の砦などが設けられ、みんな汚れてもいい服を着ていったという。
 電話を切ってから、再びカーロの台所の場面とにらめっこして、床の上の“goo”の落とし主はだれか、推理をはたらかそうとした。カーロ本人が一番疑いが濃いが、猫のクラッカーがやらかした可能性もあるし、カーロのお父さんも100%白とは断定できまい・・・・・。その路線で一カ月余り悩み、最終的には“goo”を「だれかが おとした もの」と訳した。
 本になってからも、あの訳でよかったのかどうか、気にしている。先月、わが家の飼い猫のための缶詰を、近くの雑貨屋へ買いに行ったら、隣の棚からチラリと“Goo!”が目に入った。パッケージに舌なめずりする白犬の絵と、ドロドロというかグシャグシャというかウエットな感じの餌の写真が載っていて、その上に大きく“Goo!”と、ルビの「グー」もついている。「何だ、訳せなかったあのgooが、ちゃんと日本語の商品名になってるんじゃないか!」
 手に取って喜び、やがてこれが一般名詞化すれば、カーロの“goo”をそのまま「グー」に改定できるかもしれないと、一瞬、解決策が見えた。そしてハッと気づいた。これはパッケージの写真のグショグショ状態を表したネーミングではなく、「おいしいよ」という意味のグッド(good)を「グー!」と表現しているだけなのだ。
 がっかりして、猫の餌の棚へ戻り、「まぐろにシラス入り」を選んで買った。



アーサー・ビナード アーサー・ビナード  
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。90年に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞受賞。絵本に『くうきのかお』、翻訳絵本に『どんなきぶん?』(ともに福音館)、『カーロ、せかいをよむ』『カーロ、せかいをかぞえる』(ともにフレーベル館)。エッセイ集には『空からやってきた魚』(草思社)。
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