アーサーの日本語つれづれ草 アーサー・ビナード
  【第39回】  わたくしとしたことが →バックナンバーに戻る

ジュンク堂池袋店でのトークショーで、清水哲男氏と(2005.7.2.)































































東京都北区の王子稲荷神社。古典落語「王子のきつね」ゆかりの地。



































噺の主人公の男は、人間の女に化けた牝狐をひどい目にあわせる。その後、王子稲荷のたたりをおそれた男はボタ餅を供えるが、狐は馬糞じゃないかと疑って食べない。


 わたし、わたくし、あたし、あたくし、あたい、あっし、うち、わし、わちき、わっち、われ、吾が輩、小生、小弟、愚生、ぼく、おのれ、おれ、おら、おいら、おいどん、おれさま、こちとら、不肖、余、それがし、拙者、手前、乃公(だいこう)出でずんば――自分をいったいなんと呼べばいいのか、日本語を学び出したぼくは、まずそこで迷った。
 もちろん、一番ベーシックな、一般的な一人称として「わたし」というのを、日本語学校の最初の授業で誰でも教わる。けれど街に出て、いろんな人の話を聞いたり本を読んだりしていると、選択肢がいっぱいあってジャパニーズの自称はまさに十人十色であることに気づく。英語の中で生まれ育った人間にとっては、衝撃的な多様性だ。
 自分が主語なら「アイ」、目的語へ回ったら「ミー」と、その二つの一人称でずっと生きてきて・・・・・もし服装にたとえていえば、同じ簡素な制服を、物心がついてから大人になるまで、毎日なんの疑いもなく着ていた人が、いきなり貸衣装屋に連れて行かれたような気分か。あれこれ試着してみたくて、でも目移りし、戸惑いを覚える。

 迷ってしまうほど多い日本語の「自分自身」だが、男性が使うものと、女性が使うものと、両性兼用と、種類を分けることができる。日本語学校では当然その違いについても教わり、そこが「女言葉・男言葉」への入り口だったような気がする。
 「ナニナニだわ」「ナニナニだぞ」といった助詞の使い分けも、教科書でずいぶん出てきた。しかし、語学というのは説明や理屈よりも、むしろオウム返し的な、人がいった言葉を繰り返してまねることが基本だ。ぼくが日本語学校でお世話になった担任の教師は、みな女性だったので、最初の一、二年のあいだ、なにかにつけてぼくは女言葉をしゃべっていた。その後も、気をつけないとうっかり「大丈夫よ」とか「そうかしら?」「きれいだこと!」なんて、つい口から滑り出したりした。
 中には、とてもひかれる魅力的な女言葉があり、使ってみたいなぁと思いながら、ふつうの会話ではそんなチャンスなどなく、隣の芝生というか、禁断の果実みたいな感じの表現もある。
 「わたくしとしたことが・・・・・」というのがその一つで、覚えてから十年ほど、じっと言語の隙をうかがって待っていた。すると、「ダンデライオン」というライオンが主人公の英語の絵本を、和訳する機会に恵まれた。終わりのティー・パーティーで、キリンのジェニファーがダンデライオンに謝る場面があり、ぼくはその彼女の台詞を「あらまあ、そうでしたの? わたくしとしたことが・・・・・」という日本語にした。そしてそれが活字になったとき、一種の達成感を味わった。「やっと使えた!」と。

 ストーリーを語るのに、女言葉・男言葉は非常に重宝する有用なものだと分かったのは、落語を英語に訳そうとしたときだった。「王子のきつね」という噺が好きでたまらず、英訳を試みたのだが、きれいな年増に化けた狐と、半ちゃんというおっさんの会話が、例えばこんな具合だ。「あら、そうだったの・・・・・あたし、半ちゃんに逢えてうれしいわ」「おれもうれしいぜ。どうだい? どっかへいこうか?」――男と牝狐と、どっちがどっちだか、なんのト書もなく最初から最後まで一目瞭然だ。語り手が、たとえ声をまったく変えず、棒読み同然に語ったとしても、両者の区別はそれでもはっきりして、支障なく噺が進む。
 ところが、英語に置き換えると、女言葉・男言葉の違いはあまり出せないので、どこか説明で補ったりト書を付け加えたりしないといけない。また、英語落語として高座にかけるとなったなら、語り手は声色を遣い、しなも作って、全身で男女の違いを派手に演じる必要がある。
 日本の落語家は声を巧みに使って語るが、それは声帯模写とは違う。体の仕草も芝居とまではいかず、控えめなものだ。それでいて、観客におもしろく伝わる。そんなおさえの利いた、高度な話芸が成り立つ要因の一つには、日本語の女言葉・男言葉の幅があるように思う。少なくとも英語落語に作り替えた場合は、少し説明的なストーリーと、ややおおげさな演技になりかねない。

 そうかといって、日本語が妙に男女の違いにこだわっているわけではない。日本の昔話を英訳するとき、いつも悩むのは、兎を「シー」にするか「ヒー」にするか、鼠たちの「ヒー」と「シー」の振り分けはどうするか、といったところ。日本語の原文では、山の狸はずっと「たぬき」でいいし、兎も「うさぎ」、鼠たちもそのままで、結末までずっと「ねずみ」で通せる。しかし英語で語るためには、どうしても代名詞を使わなければならない。「イット」でやると、物以下の扱いなので物語が台なしになってしまうし、なにがなんでも性別を決めるしかないのだ。
 ま、山の狸に関しては、「たんたんたぬきの・・・・・」の歌があるので、悩まずに「ヒー」と訳すことができるけれど。鶴女房も無論、そのあたりは問題なし。

 日本国憲法には、男女平等がきちんと明記してある。(ぼくの母国の、アメリカ合衆国憲法を見ると、その部分が欠け落ちている)。日本ではさらに、一九八六年に「男女雇用機会均等法」が施行され、それから「男女共同参画社会基本法」も六年前に施行されて、土台はある程度できてきているように思う。これからも、憲法が改悪されずに物事が建設的に進めば、本当の男女平等社会を実現できるかもしれない。それが待たれる。
 ぼくはその実現のために、女言葉・男言葉を排除する必要はないと思う。バラエティーに富んだ、豊かな表現を取り揃えた日本語は、すばらしい道具箱だ。道具を捨てるのではなく、男女問わずみんなが自由自在に使用できる環境を整える方向に、前進したい。
 言葉はしばしば差別の道具として使われるが、それを逆手に取って、社会に鋭く切り込んでいけば、同じ言葉が差別の腹黒さをあばく道具にもなる。女性の落語家と男性の落語家と、男女問わずいっしょに当代の「王子のきつね」を作り上げていくときだ。

アーサー・ビナード氏 アーサー・ビナード  
Arthur Binard
1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒。90年に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞受賞。絵本に『はらの なかの はらっぱで』(フレーベル館)、『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)、翻訳絵本に『ダンデライオン』(福音館書店)、エッセイ集に『日々の非常口』(朝日新聞社)、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)など。
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