わたしの好きなお国ことば 川崎 洋(詩人)
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 1944年(昭和19年)太平洋戦争敗戦の前年、中学2年生になる春に東京から一家をあげて福岡県八女郡岡山村に疎開し、八女中学(旧制)に転入学しました。通りに面した藁葺屋根の一軒家を借りて疎開生活が始まりました。
 まもなく麦刈りの季節を迎えました。当時のこととて若い男性達はもちろんのこと、妻子を残して軍隊に召し上げられた中年の村人達も大勢いて、わたしら中学生の労働力はネコの手も借りたい農繁期には頼りにされました。そこで授業は一時お預けとなり、農村動員の名のもとに、麦の刈り入れの手伝いに、あちこちの農家へ2、3人ずつ差し向けられたのです。
 同級生はみんな農作業に慣れていて麦刈りなんかヘノカッパでした。わたしはといえば、第一鎌なんか触ったこともない。なにしろ農耕機があるわけではなく、作業はすべて鎌で麦の根元を切り取ることで終始しました。未経験だからといって免除されるはずもなく、わたしはいわばプロに混じって麦畑に入り、見よう見まねのぶっつけ本番で鎌で麦の根元を切り始めました。するとたちまち手のあちこちを切ってしまい、血が出てきました。そこで農家のおばさんに断って家へ急ぎ帰り、包帯を巻き、さらに予備の包帯とメンソレータムをポケットに入れて麦刈りの現場へ取って返しました。







 負け惜しみでなく言うのですが、その時、別に悲壮感はなかったように覚えています。鎌で手を切っても、馴れてないから、そういうもんだと自分に言い聞かせたし、それよりも負けるものかという多少の気負いと、何か珍しいスポーツに取り組むような好奇の気持ちがありました。
 そんなわたしを見て、農家のおばあさんが、
「やおなかのう」
 と声をかけてくださった。この筑後言葉をわたしはその時初めて耳にしたのでしたが瞬間、意味を直感的に悟りました。言葉とはそうしたものです。
 つまり、
「馴れないことで、分に過ぎる仕事であろうのに、健気にもよくなさることよ」
 わたしにはそう伝わってきたのです。このいたわりを含んだほめ言葉ほどわたしにとってうれしいものはありませんでした。疎開ものという他所ものが土地の人に受け入れられたというか、少なくとも「いいよ」と頷いてくれたのを感じたからです。 
 「やおなか」は「やおい(柔い)」の否定で、語感の根に、普通・平均・共通値の上をいくという意味合いがあります。以来7年間筑後に住みその言葉をマスターしました。それが後年日本各地の方言に対して強い興味を持ち、調べ始めるきっかけとなりました。疎開したおかげだと感謝しています。



川崎 洋 
(かわさき・ひろし)
1930年、東京都生まれ。西南学院専門学校英文科中退。53年、同人詩誌『櫂』を茨木のり子と創刊。日本語が持つ豊かな世界を愛し続け、詩作のほか放送脚本、エッセイ、方言研究、童話など幅広い執筆活動を続けている。詩集に『ビスケットの空カン』(花神社・高見順賞受賞)『川崎洋詩集』(思潮社)『不意の吊橋』(思潮社)『だだずんじゃん』(いそっぷ社)など、著作に『ことばの力』(岩波書店)『かがやく日本語の悪態』(草思社)『方言の息づかい』(草思社)など。97年、紫綬褒章受章。
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