わたしの好きなお国ことば 新川和江(詩人)
  【第14回】  なつかしのアンニィ →バックナンバーに戻る

 私が生まれて育った絹川村小森は、百戸あまりの集落で、今では結城市に併合されているが、結城紬の発祥地と村史にはしるされている。私の生家は桑苗の生産を業としていて、機(はた)織りはしなかったが、村道を行くと、樫の木や卯木のクネ(垣根)の奥から、キーコチャンチャン! と気魄のこもった音が、朝早くから聞こえてきた。弛んだ音がすると、「アスコ(あそこ)の嫁の機はテバタキバタだ」と年寄りたちは評定した。病人が手をたたいて家人を呼ぶような、弱々しい杼(ひ)の打ち込み方では、よい機は織れない、というのである。
 私が育った昭和初期には、小学校を卒(お)えただけで、口減らしのために他家へ子守に出されている子供が、少なからずいた。男の子がアンニィ、女の子がアンネェで、子守のことをこの地方ではオトモリと言った。すぐ下の妹の子守にわが家にきていたのはアンニィで、心優しいこの少年は、私たち幼い者のためによく歌をうたってくれた。分厚い流行歌集を持っていて、それには童謡も収録されていたから、アンニィの歌声を頼りに歌詞を辿ってゆくうち、平仮名はもとより、ルビ付きの漢字もかなり覚えてしまった。のちに師事することになる西條八十の「かなりや」なども、このアンニィによって刷り込まれているので、子守には特別思い入れが深いのである。



 しかし子供の頃の私は、この、もっちり重いひびきを持つオトモリという語がきらいであった。長じて万葉集を読むようになってから、このオトモリが「乙守」「弟守」であって、けっして泥臭い田舎言葉ではないことを知った。そうなると、アンニィ、アンネェも、少女雑誌に出てくる外国の少年少女の名前のように、しゃれた感じがしてくるからおかしなものである。
 現在も屋号として残っているが、集落の中央に昔はオユヤという公衆浴場があった。それぞれ家に風呂はあるのだが、娯楽の少ない農村の唯一の社交場であったのだろう。私も母に連れられてはいりに行ったことがあった。八帖くらいの木の浴槽で、流し場も壁も板張りだった。
 ここで、私の母と、後年私の夫になる新川の母とは、はじめて顔合わせをしたらしい。「ずいぶん目と目の間のせばまったひとだこと」とこちらは思い、「ずいぶん目と目の間の離れたひとだこと」とあちらは眺め、それがご縁で、姉妹のように親密な付き合いがはじまったのだそうな。この二人、どちらも東京暮らしが長かったせいか、土地の言葉を使うと、子供心にもぎごちなく聞こえた。
 茨城県人どうしが話しているのを聞くと、まるで喧嘩をしているようだ、とはよく聞く批評である。アクセントがあいまいで、尻あがりのイントネーション。たしかに語調は荒いけれど、「お湯屋」や「乙守」のようなヤッコイ (やわらかい)古語も、大事にされている。東京に移住して半世紀を過ぎた今も、時折あたたかく懐かしく、耳底によみがえる。



新川和江 
(しんかわ・かずえ)
詩人。1929年、茨城県結城市生まれ。結城高等女学校在学中に、下館に疎開していた西條八十を訪ね、以降師事する。53年、第一詩集『睡り椅子』を刊行。60年、『季節の花詩集』で小学館文学賞を受賞。83年、吉原幸子とともに詩誌『現代詩ラ・メール』を創刊。99年には、詩集『はたはたと頁がめくれ…』とそれまでの業績により、第37回藤村記念歴程賞を受賞。 その他の詩集に、『ローマの秋・その他』『土へのオード13』『はね橋』『けさの陽に』など。2000年、勲四等瑞宝章受章。詩誌『地球』同人。
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