わたしの好きなお国ことば 道場六三郎(料理人)
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 僕は石川県の山中(やまなか)で育ったんですが、母方の親戚が金沢にいて、子供のころは、金沢に行っただけでもアクセントが違うなあ、ことばが違うなあ、と思ったものでした。けれども今になって分かるんですが、山中も金沢もたいして差があるわけじゃあないんですね。東京、神戸、大阪といろんな土地で料理修業をして、ことばもさまざまですけど、僕の場合、大阪に行けば大阪なまり、富山なら富山、広島の友だちに会えば広島と、けっこうその場に馴染んじゃうんです。
 そんなふうに僕は、とっぽいというか、子供のころにはだんくらなことばっかりやっていました。「だんくら」というのは、山中のことばで、腕白といった意味です。僕はだんくらよりももっと上の「かすいち」と呼ばれてね。なんでもオーバーにやることなんですが、高い岩から飛び降りたり、派手な踊りをしたり。そんな子がよくいるでしょう。一、二級下の近所の子を川に連れていって、怖がってると背中を押して水に落としたりね。親たちからは叱られたけれど、そうしてやることで泳げるようになるんだしね。冬場、川鱒が上ってくると、川師がやるように生醤油を飲んでね、あれで体温を上げておいて、冬の川にもぐる。そんなだんくらなことをしました。

 その反面、僕は非常に親孝行でね、兄貴たちがみんな志願して軍隊に行っているときに、親父はからだが弱かったので、結果、生活のことは母親と僕とでぜんぶしたんです。あの時分は何でも統制ですからね、お米とか魚とかの食べる物は言うに及ばず、炭も統制でね、かまどの焚きつけは、ぜんぶ僕が拾いにいったんですよ。焚きつけは切って下屋(げや)にきちっと積んでいって、炭は縁の下に並べて、その出し入れも僕がやって・・・。だから、「ろくちゃんは宝や」「お利口さんや」と近所の評判でした。
 むかしは娘さんのことを「にゃあにゃあ」、嫁さんのことは「あんにゃあ」といってね、山中の名物にも「娘娘万頭(にゃあにゃあまんじゅう)」というのがありますけどね。僕が子供のころ、あんにゃあたちは橋立の港から山中まで、8キロ10キロの道を毎日リヤカーで往復して、朝市でいわしや小魚を売っていました。売れ残りは近所で売り歩いて、カラにしてね。そのあと嫁さん連中は集団で共浴場に来たりして。男衆は大きな太いタイヤの自転車にトロ箱を5個6個積んで運んでいました。えらいなあと思いますよ。今はそんなこともなくなって、小型自動車があるから楽になったけれども。
 昔の娘さん連中は、いちど家を出たらしんぼうせなあかんということを親から常にいわれてね、僕なんかも親兄弟から、しんぼうせなあかん、途中であきらめて帰ったらあかんといわれて。うちの父親は歌舞伎や浄瑠璃が好きで、よくせりふまでいれて、なんでも教えてくれたんですけどね、子供のときのそうした親の教育が、いちばん僕の人生の手助けになっていますね。
 今ごろは金沢に行くとね、夜は必ず東の廓(くるわ)、西の廓に行くんです。別に芸者をあげるわけじゃなくて、馴染みが結構いるんでね。東に藤としという店があるんですが、そこのおかあさんが、いまだにまことの金沢のことばをくずさずに話すのがおもしろくてね。庭に大きな松の木があって、その枝が屋根を伝って、ちょうど二階の床の間に引き入れてあるんですが、風が吹くと床の間の松がゆらぐんです。
 たまにいくとね、おかあさんが「長いこってえ(お久しぶりですね)」と迎えてくれて。昨日来ても、ほかのお客さんの手前、しょっちゅう来てると思われるのがいやで、「長いこってえ」と言ったりしてね。それでいて、まわりのみんなにも「長いこってえ」と挨拶するんです。おもしろいですよ。(談)



道場六三郎 
(みちば・ろくさぶろう)
料理人。1931年石川県江沼郡山中町生まれ。1950年に上京し、銀座「くろかべ」、金沢「白雲楼」、赤坂「常盤家」などを経て独立。1971年銀座に『ろくさん亭』を開店。フジテレビの番組「料理の鉄人」で初代和の鉄人として活躍。著書に『鉄人のおかず指南』(中公文庫ビジュアル版)、『伸びる男とダメな男はすぐわかる』(新講社)など。
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