わたしの好きなお国ことば 赤江瀑(作家)
  【第19回】  ささらほうさら →バックナンバーに戻る

 下関といえば、河豚(フグ)。刺し身やチリやひれ酒は有名だが、かっこうなお国ことばの代表選手は、案外この魚あたりかもしれない。この街では、フグは不具とか不遇にかさなる濁音を嫌って「フク」と呼ぶ。福につなげる呼称だが、元々このほうが古い読みだともいうから、縁起かつぎ一方の佳名(かめい)とばかりも言えないが、下関人と、そうでない人との区別が一番手っ取り早くつくのは、この「フク」。関っ子は、まずけっして「フグ」とは濁らない。
 私の生地は下関だが、小学時分に疎開で山国の農村へ移り、中学高校と学区制なんかで出たり入ったりし、その後が東京、小説を書くようになって本拠地はこちらに置き、さらに二十数年前からは下関に再び戻った。子供の頃は父の郷里の萩で過ごすことも多かったし、私の方言ワールドは、さしずめ山陰、山陽、その中間の農山村部とでもいえようか。
 だが、なかにはそのいずれかには違いはなくても、どこでどんな具合に耳にしたのかが不明の、気になることばは幾つもある。たいてい日頃は忘れていて、或る時ひょこっと頭のなかに躍り出てくる。ああこれ誰がいったんだっけ。どこで憶えたんだっけ。せんさくするが、わからない。そんなことばのひとつに、「ささらほうさら」というのがある。
 躍り出してきたのは、小説を書いているさなかであった。
 そのときの状況を理解していただくには、幾ばくかの説明が必要だろう。小説は、もう生きることに意味を持たなくなった中年の夫婦が、死に場所探しの旅先で見つけた或る漁村の岬から身を投げて死ぬ。縛(いまし)め合って離れるはずのない死体は、夫が沖の漁船に拾われ、妻は海苔ひびの杭に流れつく。二人とも溺死体だったが、数時間後、夫だけが生き返る。以後、その漁村に住みついた夫の日常に、現実といわず夢幻の事といわず次から次と不思議な出来事が起こる。どれも水に関係した、彼を死へと誘う変事だった。夫は妻が責めているのだと思う。責めてくれていいんだと、そして香華を手向けた墓に向かっていう。

 

 「僕はいま、平安だ。君がそばにいないからだ。素敵な予感がするんだ。ここでなら、君が愛せそうだ。どんなに来いと言ったって、僕はそっちに行けないんだ。だって、行ったら、君がいるもの。そうだろ?君に会うもの。そんなことは、絶対にできない。考えてみろ。また始めるのか。あの暮らしを。なにもかもなくなった、なにもかも終らせなきゃならなくなったあの暮らしを」
 しかし真相はそんな生易しいものではなかった──といった按配の「溺死者」をとりあげた小説のなかで、夫に襲いかかる恐怖の道具立てをあれやこれやと考えていた途中で、不意に出てきたことばだった。
 「ささらほうさらだね。君もひどい目にあうよね。けどこれ、もっと続きますよ、もっと」
 そう。悪いことずくめ。踏んだり蹴ったり。散々な目。意味合いはそういったことばである。でもちょっとトボけた味の興趣がありませんか?



赤江瀑 
(あかえ・ばく)
作家。1933年、山口県下関市生まれ。放送作家を経て、1970年、「ニジンスキーの手」で第15回小説現代新人賞。1974年に「オイディプスの刃」で第1回角川小説賞、1984年に「海峡」「八雲が殺した」で第12回泉鏡花文学賞を受賞。他の作品に、「罪喰い」(講談社)「ポセイドン変幻」(新潮社)「オルフェの水鏡」(文藝春秋)「霧ホテル」(講談社)など多数。
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