わたしの好きなお国ことば 町田健(言語学者)
  【第24回】  「よる」と「ちょる」 →バックナンバーに戻る




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 私が生まれ育ったのは福岡県甘木市という、県中部で筑後平野の北辺にある人口四万人ちょっとの小さな町である。小さな町ではあるが、西鉄甘木線と国鉄甘木線(現在は第三セクター甘木鉄道)という二本の路線の終点でもあって、鉄道が好きな私としてはちょっぴり自慢でもある。
 小学校までその甘木という町で暮らしたので、私の母語と言えるのは、この地方の方言だということになる。

 福岡県の方言は、当然のことながら九州方言に属し、その特徴の一つとして、標準語の「ている」という形が表す二つの意味を、きちんと異なった言い方で区別するというものがある。「ている」が表す意味というのは、「(人が)歩いている」と「(財布が)落ちている」の違いを比べることで分かる。「歩いている」だと、「歩く」という動作の途中だという意味だが、「落ちている」だと、「落ちる」という動作の結果として地面にある状態を表しているのである。
 標準語しか知らない人には、ずいぶんと細かい違いのように見えるかもしれないが、九州人には大切な違いである。そして私の方言では、動作の途中を「よる」で、動作の結果を「ちょる」で表す。だから、「(人が)歩いている」は「歩きよる」と言うし、「(財布が)落ちている」は「落ちちょる」と言う。

 「何をしているのか」という場合だと、「している」は何かをする途中なのだから、私の方言では「なんばしよると」と言わなければならない。時々九州弁として「なんばしちょると」という言い方があげられることがある。これも決して間違いではない。ただ、「しちょる」は結果としての状態を表すのだから、誤ってガラスを割ってしまったとか、コップの水をこぼしてしまったとかいう、目に見える結果を前にしてしか言えないので、正しく使える条件はずいぶんと限られていて、やはり私などには何となく変な言い方に思える。

 さて、小学校を卒業した後は、筑後地方の中心都市である久留米市の中学校に進学した。筑後地方の方言は、甘木の方言と似てはいるのだが、違うところもたくさんある。今問題にしている、動作の途中と結果の区別は当然あるのだが、私の方言で「ちょる」と言うところを、筑後方言では「とる」と言う。この「とる」は、福岡県の県庁所在地で、人口140万人の大都市である福岡市でも大体同じで、福岡県人にとっては何と言っても「都会風の言い回し」である。
 というわけで、「ちょる」を使う甘木出身の人間は、福岡市よりははるかに小さな町の久留米でも、「田舎のことば」を使うやつとして冷やかされたものである。「まあだ電車のきちょらん」(まだ電車が来ていない)とか「そげなこつは知っちょる」(そんなことは知っている)のように、「ちょる」を使う頻度は日常会話ではかなり高いので、「ちょる」という言い方はかなり目立ったのだろうと思う。

 その後この学校には、中学・高校と六年間通って、筑後地方の方言を日常的に聞きながら暮らしたのだが、ついに私のことばで「ちょる」が「とる」に取って代わられるということはなかった。別に自分の方言に誇りがあったというわけでもない。多分、久留米の方言が、福岡の方言ほどこの地方で「威信」のあるものではなくて、「ちょる」と言い続けたところで、冷やかされこそすれ、田舎者だと馬鹿にされるということがなかったためだろう。もし福岡市の学校に通っていたとしたら、多分「知っちょる」ではなくて、福岡風の「知っとう」という言い方に変えてしまっていたのではないかと思う(福岡では「とる」が「とう」に変化する)。

 大学で言語学を専攻し、研究のテーマとして動詞の時制を選択した。その時には、日本語の「ている」が表す二つの意味を区別するのに、私の方言で「よる」と「ちょる」のどちらに言い換えられるかを確かめれば簡単に判断がつくので、結構ありがたかった。言語学に携わる者として、標準語とは特徴が異なる方言を知っていることは有利であり、その点でも、自分が方言を操れることをまことにありがたいと思っている。


町田 健 
(まちだ・けん)
言語学者。1957年、福岡県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。東京大学文学部助手、北海道大学助教授などを経て、現在は名古屋大学大学院文学研究科教授。著書に『言語学が好きになる本』(研究社出版)、『間違いだらけの日本語文法』(講談社現代新書)、『町田教授の英語のしくみがわかる言語学講義』(研究社)、『ソシュール入門 コトバの謎解き』(光文社)など多数。
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