わたしの好きなお国ことば 林 京子(作家)
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高校2年のとき、1958年


































1959年、赤平市での書道講習会



 長崎弁に限らず方言を聞いていると、体がゆらゆら自然に揺れてしまう。体の芯から吐かれる言葉だからだろう。標準語には身心を揺さぶる霊がないような気がする。
 私は昭和二十年の二月まで十四年間、上海で育った。居留民が遣う日本語は標準語だった。しかし地方出身の人が多いので各地の訛が混った、上海的標準語である。女学校一年生のときに東京から少女が転校してきたが、少女が発した第一声が「ごきげんよう」だった。
 その美しさ。言葉のやわらかさ。
 日本語はこんなにきれいな言葉だったのか、と私は、はじめて母語に感動した。標準語というより東京弁だったのかもしれない。
 上海育ちで、両親が長崎出身の私が話す標準語は、どうやら贋物らしい。かといって、長崎弁も話せない。真似してしゃべってみても言葉が上すべりするので、風土で鍛えられた方言に対して失礼になる。
 小学校一年生の夏に、上海から長崎市内の小学校へ転校したことがあった。聞きとれない長崎弁に囲まれて戸惑っていると、授業開始の鐘が鳴った。クラスメートたちは窓から身を乗り出して、廊下の先にある職員室を窺いながら、いっせいに囃し出した。
 せんせいのォー、きいなったあ・・・ せんせいのォー、きいなあらーん。
 長崎の坂道に似た、上ったり下ったりの抑揚をつけて繰り返して、突然「きなったっ、きなったっ!」先を争ってどたばたと席につく。取り残された私は言葉の意味がわからず、廊下をみた。エンマ帖を胸に抱いた担任の先生が、教室の方へ歩いてきている。きなった、きなったは、いらっしゃった!の警報だった。私がはじめて耳にした実用的長崎弁が、この、きなった、である。
 窓から半身を乗り出して、足をばたつかせながら、せんせいのォー、と叫んでいたクラスメートたちの長崎弁は、そっくりそのままの節をつけて、ときどき私の口から飛び出してくる。ぼんやり空を見ているとき、父や母や姉妹を想っているときに、脈絡なく口ずさむのである。そして唯一、故郷の人に遠慮なく口に出せる長崎弁である。
 長崎弁にも品のよいものと、悪いものがある。老舗や旧家の夫人たちが話す旧い長崎弁には惚れぼれする。おいでなはあまっせ、としなやかに迎えられると、味のない標準語をさらっと捨てて、長崎弁に切り換えたくなる。が、即席では身に付かない。いまでも退屈で手持ちぶさたなとき、とぜんのうして、と溜息をつくお年寄りがいるが、とぜんとは徒然、つれづれのこと。『徒然草』の吉田兼好が生きた時代が、方言の歴史につながって生きている。長崎より諫早方面で多く遣われているが、とても風情がある。私も海が見下ろせる日だまりの石段に坐って、出入りする船を眺めながら、「とぜんのうして」としみじみいってみたい。


林 京子
(はやし・きょうこ)
作家。1930年、長崎市生まれ。長崎高等女学校卒業。1945年2月、上海から長崎に戻り、8月に被爆。その体験をもとに書かれた『祭りの場』で、75年、第18回群像新人賞と第73回芥川賞を受賞。以後も、『ギヤマンビードロ』『無きが如き』など原爆体験に基づく作品を発表。他の作品に、『上海』(第22回女流文学賞)、『三界の家』(第11回川端康成文学賞)、『やすらかに今はねむり給え』(第26回谷崎潤一郎賞)、『長い時間をかけた人間の経験』(第53回野間文芸賞)など。
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