わたしの好きなお国ことば 国井雅比古(NHKアナウンサー)
  【第36回】  びしゃら →バックナンバーに戻る



赤ん坊の頃。都留市の生家にて。







 小学生の頃、雨が降ると「ビシャラに気をつけて!」と母によく注意されたものです。ビシャラ。び・しゃ・ら。音の響きがいいでしょう。何だと思います?雨の日にあらわれる妖怪変化、ではありません。道路の上にできる水溜まりのことです。
 ビシャラの故郷、つまり私が生れ育ったのは山梨県の東部、富士山や富士五湖に近い都留市という人口3万程の街です。山々に囲まれ平地が少ない為、昔から山の斜面には桑が植えられ養蚕が盛んでした。機屋さんも多く、夜具地に使う甲斐絹の産地でした。今ではすたれてしまいましたが、小学生だった頃、近所からは規則正しい機織りの音が早朝から深夜までうるさい程聞こえてきました。
 家の前の国道はまだ舗装されておらず、三輪車やトラック、時折馬が荷車を引いて通るという時代です。めったにやって来ない乗用車が姿を見せると、子供たちはその後を追い、胸いっぱいに排気ガスを吸っては、これが文明の匂いなのだといたく感動したものです。マイカーなどという言葉が流行るずっと前のことです。
 ビシャラはそうした懐しい風景と結びついています。未舗装のデコボコ道に雨が降ると生まれるビシャラ。ところで、小学生でも長靴をはいていましたから一寸注意すればビシャラをやりすごすことができたはずなのに、どうして母はしつこいまでに「ビシャラに気をつけて」と云ったのでしょう。答は簡単。子供はビシャラで遊ぶことが楽しかったからです。ズボンは勿論、上着まで濡らしてしまったことが何度あったことでしょう。
 ビシャラでも何でも、あの時代の子供たちは屋外でよく遊んだものです。かくれ鬼や缶けりといったものからベーゴマ、メンコまで、表の通りも裏の小路もすべて遊び場でした。何しろ道路が車によって占領されていなかった時代ですから大人は、街を流れる桂川の深い淵には近づくなと云っても、決して「車に気をつけろ」などとは云いませんでした。
 時の経つのも忘れて遊んでしまい、親に叱られやしまいかとヒヤヒヤしながら帰ったものです。そんな時、都畄の子供たちは“飛んで”帰ります。まさに空を飛んでまで早く帰りたい気持なんですが、空を飛ぶわけではなく、走ることなんですね。ですからかけっこをすることもとびっこするといいます。
 この“とぶ=走る”ということばを長い間共通語だと確信していました。東京での高校時代、「とんでいけば間に合うよ。」と東京出身の友人に云ったところ「どうして飛ぶことができるんだ」と真顔で反論されました。この友人は不可能なことをやれ、つまりできるわけがないと馬鹿にされたと思い込んだようです。とんだことになりました。
 アスファルトやコンクリートで固められ、ビシャラのある風景は、記憶の遠い世界に去ろうとしています。共通語を操るというアナウンサーになって30数年。ふるさとのことばは、時折、痛切でかけがえない思いと共に甦ってきます。


国井雅比古
(くにい・まさひこ)
NHKアナウンサー。1949年山梨県生まれ。東京大学卒業。1973年NHK入局。主な勤務地は、富山・旭川・東京・名古屋など。これまでの主な担当番組、「ぐるっと街道3万キロ」「日曜美術館」「食卓の王様」。現在の担当番組、「プロジェクトX 挑戦者たち」(NHK総合 火曜21:151〜21:58)メインキャスター。
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