わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第1回】  せまじきものは、宮仕え →バックナンバーに戻る

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今から50年ほど前、パチンコが大ブーム、熱中する人たちを親指族といった。現在のパチンコファンにはわからないかもしれない。今ではダイヤルを握って回すだけで玉打ちができ、玉も自動的に注入する受け皿が付いているが、当時は沢山握った左手の玉をひとつずつ器用に入れ、右手の親指でしきりにレバーをはじいていたので親指族といわれたのだ。チューリップもラッキーセブンも登場していない時代、自分のタバコや家族におみやげのパイナップルの缶詰などささやかな射幸心を満足させる人たちをいった。
 今、親指族といえば「ケータイ」のことばだ。電車の中で一心不乱に携帯電話の画面に向かい右手親指が動き回る。その、早いこと。気になってちらりと視線を送ると、声を出して会話していないんだからいいでしょというようにジロリと睨み返された。スミマセン。そうやって、メールを送っては、つねに返事をチェックしている娘さんたちの技術に感心する。その風俗を「一指送電」ともいうのだそうだ。
 このことばは「一子相伝」のシャレ。大切な学問や高度な技術を厳しい修行の結果、体得する極意で一家を成し、一流を立て他人に教えず、跡取りにだけ、つまり後継者や嗣子にだけ伝授することをいう。
 たとえば、刀剣の刀鍛冶。焼入れの時間や、どれくらいの水で冷やすのか秘伝がある。長年修行してきた弟子がその水温を知ろうとして師匠の目を盗み片手を水槽に浸けたところ、師に見つかり片腕を切り落とされたという凄まじい物語を読んだことがある。名人になるには年月だけでなく、それに耐え、考え、高い心の境地に達しなければ会得できないということを言っているのだろう。 
 時代劇の忍者は巻物を口にくわえ、指を立て、まじないを唱えると、消えたり飛び上がれたり不思議な力を発揮するが、あの巻物に一子相伝の極意が書かれている。中を開いても素人にはわからない、よこしまな心の者には理解できないという。つまりHOW TO本ではなく、心で読む文字が書いてあるのだろう。


 
 
 

 
 そんな巻物は芝居によく出てくる。授けられた人には宝物いやそれ以上の命にも匹敵するものだ。
 「菅原伝授手習鑑」という浄瑠璃もそうだ。題名を見て欲しい。伝授とある。授けるのは菅原道真。右大臣にまで出世しながらライバル藤原時平の姦計で九州に左遷。非業の死を遂げ、その怨念が雷神となる壮大な王朝世界のドラマだ。虚実ないまぜにして人形芝居の原作に浄瑠璃作者が書き上げた名作。
 菅原道真は書の道にも優れていた。多くの門人の中から、勅命によって一人の弟子を選び、極意を伝えなければならない。苦慮の末、道真が選んだのは勘当されている武部源蔵である。この場面が「筆法伝授」。題名の由来はこれだ。では手習鑑の部分はなにか。有名な「寺子屋」といわれる場面がそれにあたる。手習いつまり読み書きを寺子に教えて田舎でひっそり暮らす源蔵夫婦。道真から一子相伝に近い伝授を受けながらも、勘当は解かれていなかった。それは妻、戸浪と不義密通で結ばれたからだ。師匠が許していない恋。「伝授は伝授、勘当は勘当」という道真の筋を通す姿勢を源蔵は守り、どんな貴人の下でも働ける身を自ら埋もれさせている。そこに道真左遷の悲報。源蔵は若君、菅秀才を匿っているが、発見され首を差し出さなければならない。追い詰められ、器量の良い寺子を殺し身代わりにしようと考える。今では考えられない残虐非道なことだが、その身代わりの少年を親が承知で寺入りさせていたことがあとでわかる。


 
 
 


 他人の子を犠牲にしなければ、道真公に恩を返すことができない。しかし、身代わりにする少年の命も尊い。悩む源蔵夫婦。そこで悲嘆と懊悩のひとこと。「せまじきものは、宮仕えじゃなあ」。
 宮仕えを今のことばにすれば、勤め人の身となるのだが、社命でやむなく非道な商売をするとか、お役所勤務ならではの大変さということになる。しかし、この場合の意味はもっと深い。人の命を奪ってまで返さなければならない恩義とはなんなのか。追い詰められて選択肢がなくなった夫婦の地獄を見たことば。このひとことに結集されている。名セリフではあるのだが、歌い上げてはいけない。悲痛のどん底から搾り出す声であるはずだろう。歌舞伎ではあえてここを俳優のセリフにせず、浄瑠璃の大夫に語らせ、夫婦で手を取り合ったり、抱き合ったり、という所作でみせることもある。
 そして、いちかばちかの瀬戸際、神棚から何かを出す。観客からはよく見えないが、それが巻物。伝授された一巻なのである。しっかり握り祈り懐にして、首を打ちに奥へ。
 伝授されるということは、師の技術だけでなく、考え方、生き方、ものの見方、そして心そのものを受け継ぐということなのだ。さればこそ、単に水温だけ知れば極意が盗めると思った輩は、もう学ぶ必要がない腕を断ち切られ、勘当されているにも拘らず、たったひとり選ばれ秘法を授かった恩義には、なにごとも最優先する。もし自分が身代わりになれるならなる。そんな重さがあるのだ。
 もちろん親指訓練の技術だってスゴイけどね。そんな親指姫たちのおかげで、メール通信の氾濫状態を「電信乱満」っていうんだって。そして経済は活性化。ホントかな。



葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。