わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第5回】  おのれ、おめおめ添わそうか →バックナンバーに戻る

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 暖房器具はなにをお使いだろう。ヒーター、ストーブ、炬燵…いまでは床暖房とか個人の家でもセントラルヒーティングが当たり前になっている。その陰になって消えてしまったものに火鉢がある。おこった炭やタドンを灰に埋めて手をかざす。熾ったという文字を知らない頃はカッカ火が怒っている、あるいは火を起こしているのだと思っていた。部屋全体を暖めることはできない。しかし少年時代、今よりもっと寒かった気候なのに、隙間だらけの部屋でなぜか寒さは感じなかった。
 その火鉢には薬缶をかけたり網をのせて餅を焼いた。そのための道具が五徳だ。火鉢がないから、当然、五徳も見たことがない若者も多いだろう。
 これも古い映画だが横溝正史原作の「八つ墓村」で、頭にろうそくを立て、すさまじい形相の男がいた。あのろうそくをさしている冠のようなものといえば、わかってもらえた時期もあった。逆さにして被っているのだが円形の鉄製の輪に三本足がついている。五徳は鉄輪(かなわ)ともいう。
 能にはそのまま「鉄輪」という作品がある。八つ墓村は男だが、女性が主人公。頭に鉄輪を逆さにつけて深夜鬱蒼とした森にひとり出かける。そう、丑の刻参りだ。手には槌と釘。これで藁人形を刺して三角関係によって生ずる恋の恨みを晴らす。いや相手に祟りが起きるように念ずるのだ。誰にもその姿を見咎められなければ怨念が夫を奪った女に襲いかかる。なんとも恐ろしい風習を芸能の形でみせている。
 一人の男を二人の女性が争う。本来は心変わりした男を恨むべきなのに、女性が女性を憎む場合が多い。昨今の事件報道をみてもいやがらせの電話、ストーカー行為、あげくに放火、殺人など悲惨な形になることがあり、時を越えての人間模様になっている。

 
 
 
 歌舞伎や文楽に「妹背山婦女庭訓」というラブストーリーがある。「いもせやま」とは実際にある山で妹山が妻、背山が夫。妹背の仲をあらわす。これは雛鳥と久我之助という美女美男カップルの悲劇が満開の桜景色、雛祭りの日に起きる。あと半分は「おんなていきん」と読み、女性のたしなみを書いた教科書のことを指す。
 全体は蘇我入鹿、天智天皇、藤原鎌足らが登場する大化の改新を描く壮大な物語。悪役が入鹿。その横暴のため雛鳥、久我之助は若い命を散らす。そして入鹿を滅ぼそうとする鎌足らの活躍の犠牲になるのが、お三輪というヒロインである。
 お三輪は酒屋の娘。器量も良い。たまたま隣に越してきた美男子に恋をしてしまう。この男こそ鎌足の息子、藤原淡海なのだが、身分を隠して求女(もとめ)という名で暮らしている。女を求めるなんて凄いネーミングだが古典作品で求女とか女之助とかつくと優男になる。ところが歴史上の人物の淡海は軟弱そうに見せて、狙っている女がいる。橘姫という深窓の令嬢。この姫こそ入鹿の妹だ。その心をゲットして入鹿を滅ぼすために利用しようという算段。隣の酒屋のお三輪ちゃんがしきりに恋愛モードのビームを送ってくるけれど、邪険にすると隠れ家から出なければいけないので、可愛いいから、まあいいかという程度でラブラブしてしまう。当然お三輪は本気に。一方、狙っていた橘姫も求女の罠にかかって通い妻に。夜陰に紛れ御殿に帰るとき求女は跡をつけてゆく。そのふたりを見てしまい「怪しいぞ」とお三輪が追いかけてゆく。その三人が道中で勢ぞろいするところが「道行」という形で舞踊劇になっている。
 恋の道行なら二人だが、三角関係をはっきり見せる道行だから面白い。上品な橘姫に色白プリンスの求女。それに町娘らしいしゃきしゃきした振袖姿のお三輪があとから登場してふたりを発見。なんとふたりの間にはいりこんで姫を突き飛ばす。振袖で叩く、手で打つ。まあすさまじい諍い。セリフはなく義太夫や常磐津などの三味線音楽にのって身体の振りだけで表現するのだが、歌詞にあたる地の文をたどれば、さしずめこんな喧嘩口論だ。
 「ちょっと、あんた。いいかげんにしなさいよね」「ざけんじゃないのよ、この泥棒猫」という罵りが聞こえてきそうな場面。ここで題名の「婦女庭訓」が出てくる。他人の恋人をとっていいとどんな婦女庭訓に書いてあるのだとお三輪が追及する。姫も負けてはいない。「なにいってるのよ、恋はしたほうが勝ちなの、わかった?」「ほら、求女さんは わたくしのことを追いかけてきたのよ。おわかりかしら。フン」こんなセリフだ。
 ぶつ、叩くという行為でお三輪が積極的にでるので観客も大いに笑う。ストレートにわかるのだ。なんと簪を頭からはずして姫を突っつきまくるという凄い振りまである。傷害事件になってしまいそうだが、もともと文楽の振りに伝わっている。こんな道行大騒動のあと、お三輪だけ取り残され、また悔しそうに花道を走りこんで追いかけてゆく。

 
 
 

 


 次の場面が橘姫の住む、入鹿の御殿。あまりに立派なのでお三輪が気後れしていると、橘姫の侍女たち(官女)がたくさん出てきて応対。おどおどしているから退屈しのぎにいじめてやれという相談。奥にはいった求女に会いたい一心につけこまれたのだ。婚礼の席に連れていってやるからと甘い顔を見せ、酒の注ぎ方の稽古とか、めでたい謡いを教えるふりで失敗すれば打ったり、小突いたり、嘲笑したりとさんざんにいじめる。挙句には踊りを披露しなければ連れて行かないとい脅迫。田舎娘ゆえ当然そんなたしなみはない。いやいや馬子唄を歌い、涙を流して恥ずかしさをこらえながら踊る。そこまでやったんだからどうぞ会わせてと頼むと、あろうことか「痛い目に会わせてやる」と集団暴行。さんざんに殴りつける。ふだん上品に奥勤めをしている女性たちの鬱憤のほどが知れる恐ろしくも残酷な場面だ。たったひとり、みじめに打ち捨てられたお三輪はとぼとぼ帰ろうと歩きかける。すると、御殿の奥から結婚を祝うさんざめきが聞こえてくる。
 「あれを聞いては帰られぬ」このセリフは身体の芯から絞り出る絶叫だ。いままでの田舎娘の頼りない風情がガラリとかわって憤怒と怨嗟(えんさ)の形相に一変する。いじめの途中で振袖も乱れているがさらに髪を振り乱して足音高く御殿に戻る。そして、
 「おのれ、おめおめ添わそうか」
 このセリフにすべてのエネルギーが爆発する。恋ゆえの恨み、辱めの怨み、侮られた怒り、それもすべて橘姫が悪い。だから配下の女たちも全部ぐるになってわたしをいじめぬいたのだ。「添わそうか」と文字で書くが耳には「添わしょうか」と響き、悔しさがにじむ。文楽では「寝さそうか」とより具体的だ。お三輪は歩みながら振袖を食いちぎる様を見せ、片肌脱いでの襦袢姿となる。その色は真っ赤に燃えている。血潮がほとばしり、極限まで燃えた心をあらわすようだ。
 古典のドラマはここで本懐を遂げさせない構造をもっている。なぜなら大化の改新という前提だ。御殿の奥に踏み込もうとした瞬間、理不尽にも刺し殺されてしまうのだ。ええっそんなと驚いてしまう展開。観客も今風にいえば「かわいそすぎる」とお三輪に同情を寄せる結末だ。刺した犯人は鎌足の家来。実はあなたの死で入鹿を滅ぼすことができるのだと死んでゆくお三輪に語りかける。
 入鹿は鹿の血がはいって生まれたから不思議な通力がある。それを失わせるために爪黒の鹿の生血と疑着の相(ぎちゃくのそう)の女の生血が必要だというのだ。疑着の相とは怨念が凝り固まった表情、つまり、今のお三輪の相貌なのだ。恨みの頂点に達した女性の血? 想像しただけでコワーイものがある。とにもかくにも、そんな血のおかげで入鹿をほろぼそうという求女というのは藤原淡海公だ。だからその役にたったお前は、淡海の正妻となれるのだと告げる。これで虫の息のお三輪は二度びっくり。そんな高貴な身分とは知らなかったし、まして正室になれるなんてと。さしもの形相のお三輪も優しい笑顔に戻って死んでゆく。
 こんなストーリーをよく昔の作者は考え付くものだ。よっぽど怖い表情を女性にされたことがあるのだろうか。この疑着の相っていったいどんなもの?と怖いもの見たさの方は歌舞伎をお奨めする。人形浄瑠璃では変化しないが俳優はスゴイ。最近では坂東玉三郎がか弱く哀れにいじめられ観客の涙を誘ったあと、花道で「あれを聞いては……」と振り返る。その瞬間、顔が変わる。
 メイクは変えていないのに変貌する。それは柔らかく曲線だった眉や目そして口元が全部直線になってしまうのだ。表情をうわべだけ作るのではあの顔にならない。おなかの底から噴出する被虐の反動がそう見せるのだ。「おのれ、おめおめ…」に到っては、やはり歌舞伎は女優ではなく女形が必要な演劇であることを痛感する迫力だった。

 
 
 

 


  冒頭の五徳、鉄輪は三本足。三角関係の数字とも符合するが、逆さにして被れば三本の角。まさに人を鬼にもするのが恋の側面でもある。角は普通一本か二本だ。貴兄の麗しき人の頭を触ってみて三本目が生えてきたら御用心。ですぞ。


葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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