わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第9回】  おいやい、おいやい →バックナンバーに戻る

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 「燃えよドラゴン」で有名なブルース・リー。他の作品の邦題にも全部「ドラゴン」とついている。理由をご存じだろうか。本名は李振藩(リー・ツェンファン)。アメリカ生まれの中国人だ。ブルースという名前は出生したときアメリカ名が必要なので看護婦さんが命名してくれたとか。だから、ブルース・リーも本名なのである。しかし香港をはじめ、地元では李小龍(リー・ショオルン)という芸名が一般的だ。そう、この芸名の一字に「龍」すなわち、ドラゴンがはいっている。実は本名にも龍が隠されている。「振」のつくりが辰(たつ)だ。本名、芸名、作品名すべてに「ドラゴン」がはいっている。そのわけは1940年(昭和15年)生まれ。辰年の生まれまでは気付くだろうが、辰の刻生まれでもあるのだ。今の時刻にすれば、午前8時になる。中国文化にとって縁起のいい辰(龍)が重なったことで、両親はこの男の子に並々ならぬ期待をしたようだ。32歳の若さで亡くなるものの、その予感どおり世界に知られる映画スターになった。


 龍に相対する、強い存在は虎。「竜虎相搏(う)つ」とよくいう。干支では寅と書く。歌舞伎や人形浄瑠璃の「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」という作品の主人公は、題名の一字にある「お辻」という女性だが、この人が「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻」に生まれている。こう書くと、牙をむいたコワーイ女性を想像してしまうが、その逆、美しく、色気があり御殿勤めをしているうち、殿様の後妻さんに迎えられ出世をする。しかし、この大家がお家騒動でもめている。先妻の残した二人の若様同士で跡目争い。兄が弟を亡きものにしようとする計略をお辻改め玉手御前は耳にしてしまう。これを、夫にいいつけては、弟に味方していると思われるのを嫌って、弟に毒を飲ませ顔を醜くし、出奔させる。そしてこの弟に横恋慕しているとみせかけ、玉手も家出。弟を追いかけてゆく。義母が息子に恋をしかける、というのがこの芝居のひとつの見どころ。しかし、その恋がみせかけか、本当の恋かは本人しかわからない。それゆえ、玉手の実家の両親はそんな娘を理解できない。とりわけ武家出身の父、合邦は「みだらな恋」をしかけた娘を許すことができず、ついには刀で刺してしまう。
 普通のドラマはここで終わるのだが、古典作品はここからが長い。刺されてから、玉手は瀕死の状態で本心を明かす。御殿で起きたお家騒動の実態。告げ口できない後妻の身の上。そして、わざと息子に毒を盛って顔形を崩したことなどを苦しい息で語る。この気丈さが寅年ならではなのだが、父、合邦の疑いはまだ晴れない。決定打は寅の年月日と時刻がそろった生まれの女性の生き血が息子の病気全快に必要だからわざと父に刺されたと告げ、すべてが氷解する。毒を飲ませた杯である、あわびの貝殻で玉手の血を受け息子に飲ませると奇瑞が起き本復する。
 ここで、父親に疑いが解けましたかと訊く娘。いままで、人の道に外れた行為をした、情けない娘だと信じていたからこそ刺し殺した父も、すべてがわかって、返すことばもない。心の底から疑いは解けたというセリフがこうだ。
 「おいやい、おいやい・・・・」
 涙をこらえ、申し訳なさ、愛しさ、誇らしさ、さまざまな思いがはいった返事だ。
 平成13年7月亡くなった歌舞伎俳優、十七代目市村羽左衛門は、ここがうまかった。「ととさん」という大家の奥方、玉手ならぬ、娘お辻の問いかけに、お腹の底からオレが悪かった許してくれ、わかったと「うおい」を発し、涙まじりの声で愛しい奴、なんできちんと話してくれなかった、お前を刺したオレのこの手が憎いと「やあい」を重ねる。剛直な男の嘆き、老父の衷心からの絞り声を聞く思いの名演が耳に残る。
 名セリフといえば、人口に膾炙した美文のあれこれを思い浮かべるが、一人の俳優によって発せられた声音で、永遠に記憶される短いことばもあるのだ。この合邦という役が要だからこそ、タイトルも「合邦辻」となっている。
 干支の月日の組み合わせで工夫したドラマは、このほかにも古典にいくつかある。干支ですぐ年齢がわかるわたしたちとちがって、西洋の人には「タイガーレディー」という感覚、ちょっと伝えにくい。


 ここからは、おまけの話。本名、林さんという俳優は大のゴルフファン。息子に林寅となづけようとしたのだが、周囲から、それではあんまりといわれ寅之助にかえたとか。わかります? 寅年生まれではなく、有名プロゴルファーにあやかったのだ。こたえは「タイガーウッズ」。虎に樹木の複数形。つまり林なんだって。親の夢は限りなしというところだろうか。



葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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