わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第10回】  箍(たが)がありゃこそ桶でござります →バックナンバーに戻る

イラスト

「マッスルミュージカル」を見た。ことば、セリフのないミュージカル。身体を動かすことでさまざまなメッセージを伝えるステージだ。たとえば撥(ばち)を両手に持って空中で打つ真似をするが太鼓はない。しかしドンドンと音がする。踏み板の上で撥の動きにあわせて足音を出しているのだ。次第にリズムが複雑になったり別のグループとのハーモニーも奏でて見事だ。腕と足の動きを一体化している。また白と黒の人物がステージ横一列に並び、頭をこちらに向けて腹這いになる。「けんばん君」とプログラムにある。ピアノの人間鍵盤だ。ピアノの音が響いてくる。曲は「カエルの歌」。ドレミファ、ミレド・・・とおなじみのメロディ。それに応じて鍵盤たちが腕立て伏せをし、音が出る動きをする。それが次第に早くなり、特に「ドドレレミミファファミレド」になると白鍵のドレミは特に忙しく、笑いを誘う。繰り返しのオーディションとトレーニングを経て舞台に立つメンバーは実によく統率されている。振付の中村龍史のカラーが随所に出ているからだ。劇団四季出身。松任谷由実や小林幸子などメジャーなステージを振付けたり、地道な実験的ステージも同時に作ってきた中村。最近では「EAR」という聴覚(音)を意識した公演が斬新で、今年再演される。タップの響きを生かした、足音だけで成立する会話なども今回のミュージカルに生かされている。進化した舞台は聴覚から肉体へ、アコースティックな感覚を大切にしている。演出、振付、そしてチームリーダーが一体となった成功例だ。


 統率力といえば、赤穂浪士の大石内蔵助もその代表だ。歌舞伎や文楽の「忠臣蔵」とは別に、昭和になって真山青果が書いた「元禄忠臣蔵」という戯曲でも内蔵助の存在は大きい。その一幕「御浜御殿」に内蔵助は出てこないが、ドラマの要になっている傑作だ。歌舞伎といっても三味線の音色もなければ、竹本の語りも入らない。シーンとした中、男二人の緊迫したやりとりが続くセリフ劇。名セリフがたっぷり書き込まれている。
 そのふたりとは甲府宰相、綱豊卿と富森助右衛門。のちの将軍と四十七士のひとり。場所は今の浜離宮。いわゆる「御浜御殿」で今日は諸侯を招いての浜遊び。吉良上野介も招かれている。助右衛門は上野介の面体(めんてい)を知るため綱豊の愛妾の伝手(つて)で屋敷に忍び込んでいた。四十七士に同情する綱豊は助右衛門を呼びつけ、浪士たち、そして内蔵助の真意を探ろうとする。ここからサスペンス仕立てでセリフの応酬が続く。
 クライマックスは、内蔵助の放蕩が敵を欺く方便なのか真の放埓かと尋ねる綱豊に助右衛門はとんでもないことをいって切り返す。綱豊は次期将軍の噂が高い。猜疑心の強い現将軍、綱吉をはばかって、あなたはわざと阿呆の真似をしていると世間の噂だ。その真意を探られたらあなたはどんな思いがするか、とまでいってしまう。もう斬り捨てられても仕方がない。が、そこはぐっとこらえる綱豊だ。ことばを重ねる助右衛門。われらとて、それと同様で内蔵助の真意を知ることはできない。いかにわたしを責めても、申し上げる限りではない、と血の涙を流し決然と言い放つのだ。
 そんなクライマックスの前段に仕組まれているのが私の好きな「箍(たが)がありゃこそ桶でござります」というセリフだ。あとはこう続く。
 「その一本の箍が切れれば、みなバラバラに分かれて、一枚一枚の板切れでござります。一枚の板切れに水を汲めとおっしゃってもそりゃ無理なご注文でござりましょう」
 浪士たちの思いと頭目たる内蔵助の真意を探ろうとする綱豊への牽制のことばなのだ。同志たちも疑心暗鬼になっているという、助右衛門の本音でもあろう。
 綱豊は、しかし決して興味本位で問うたのではない。関白家から浅野家再興の嘆願が出ていて将軍に進言しようとしていた。しかし再興が実現しては、もはや仇討ちはできない。内蔵助がお家再興を願い出た以上、もし聞き届けられた場合、敵討ちの理由がなくなってしまうからだ。武士として仇討ちはさせたい。しかし世の道義を踏まえた上でなければ義士とはいえない。武道精神の本義を説く綱豊は高邁だ。
 一味徒党の首領、内蔵助も世に知られる傑物。その道理をわかっているからこそ、あえて京の遊里の苦い酒を飲んでいるとまで綱豊は見抜いている。この辺が、真山青果の筆のすぐれているところでもあり、うわついた忠臣蔵礼賛ドラマと異なる点だ。
 内蔵助という箍はそれほどのものだったという歴史感覚を持たせてくれる戯曲だ。結局、浅野家再興がならず仇討ちが決行されることを観客はよく知っている。


 国政や企業経営で強いリーダーシップがもとめられる昨今、すぐれた時代認識をもった戯曲に学ぶことは多い。冒頭のミュージカルの振付も同様だ。現代という空気をしっかり取り入れて一つの文化の側面を見せ、時代を超えて訴える力がある。
 「マッスルミュージカル」の面白いことは肉体で音楽やことばを表現していることだ。天から降り注ぐ無機的な声に振りだけで、つまり手話やボディアクションだけで客席に語りかけたり、「しびれちゃった、しびれちゃった」という植木等の歌を聴かせる前に振りだけを見せ、あとで答えがわかるという仕掛けなどで、いかにわたしたちがことば人間であるかを思い知らされる。つまり感性でなく頭で見ようとしていたかを。
 セリフをいわない「しばり」もまさに箍になって、すぐれた舞台を作っていた。
 箍がありゃこその桶。「御浜御殿」も忠臣蔵という共通認識の箍、「マッスルミュージカル」も日本語という箍があってこそ楽しめる世界だ。しかし、そんな共通認識を現代日本人がいつまで保てるのだろう。


 それはともかく「ニューヨークニューヨーク」は銭湯が舞台。小道具に桶が出ていた。ミュージカルハット(帽子)のかわりに桶で股を隠して「入浴、にゅうよーく」。大笑いしたけれど、箍がなければ、お話にもならないもんね。



葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
閉じる トップへ
new_copyright2003.gif