わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第16回】  知っていなさったんかのし →バックナンバーに戻る

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 わたしは旅が仕事の日々なので、全国のさまざまな宿に泊まる。そんな宿の中には駅から徒歩3分のはずが10分かかったり、有名なホテルチェーンなのに夜10時到着で食べるものがなにもなかったり、航空会社系で高級そうだが隣室や廊下の話し声が響く薄壁だったりとミニトラブルがたくさんある。でも最近体験したホテルが最悪だった。
 鉄道系の駅直結ホテル。その町では高級というステーションホテルに予約した。チェックインしたのは仕事が伸びてもう午後9時を過ぎていた。夕食もまだ。でも一応荷物は置いてからとフロントで手続きをした。宿泊カードに記入し、当日予約なので事前入金もしてほしいと言われ、クレッジトカードの番号までしっかりコピーされて、さあ鍵を受け取ろうとしたとき、実は・・・・・といって一枚の紙を渡された。それには「本日、全館空調工事のためエアコンがききません」と書いてあった。つまり暖房がないということだ。その日は明方にかけ特に冷え込みが厳しくなるという予報を聞いていたので「ギョギョッ」という思い。ご存じのように当今のホテルは布団がない。薄い毛布一枚だ。それでは風邪をひいてしまうではないかと抗議したら「毛布をもう一枚貸し出します」と言う。それなら当然、暖房器具の貸し出しもありますねと言ったら、絶句して裏の部屋でこそこそ密談。挙句、「実はあったのですが、全部貸し出してしまいました」「エエッツ!先着順なの?」と、もう怒り心頭。「どうにかならないの」とくいさがると、また相談(三人ぐらい)。「それでは、あの警備室の電熱器をお貸しします」これで、もうわたしは爆発。だって警備員さんのものをわたしが取り上げた形になるではないか。
 「このホテルはルール違反ですよ。予約の段階で、なぜ言わなかったんですか。また、チェックインする前にどうして言わないんですか。そのうえ料金はそのままで割引もせず逆に事前徴収。全部ルール違反だよ」てなことを空腹で訴えるみじめさってわかりますか? 
 事前に知らせないこと。そちらで把握している、宿泊客に不利な情報をあらかじめ開示しないこと。接客業者としてなってない。もういいです、とわたしはクレジットカードをコピーした用紙をビリビリと裂き、重い荷物を引きずってこの最低ホテルを後にしたのである。トホホ・・


 このように、知っていながら、相手に前もってその情報を明らかにしないで、不愉快な思いをさせるってことは結構ある。
 有名な芝居では有吉佐和子原作の「華岡青洲の妻」にそんなセリフが出てくる。
 麻酔薬を開発して乳がんの手術に成功した江戸時代の医師、華岡青洲をモデルに、その母、ふたりの妹、そして妻が活躍する。女たちが献身的に研究を支える感動のドラマだ。
 タイトルは妻だが「母」は大役だ。杉村春子、山田五十鈴がどちらも当り役にして大ヒット。最近では新派の英(はなぶさ)太郎、八千草薫がそれぞれ初主演で東西の劇場にかけて話題になった。英による女形の母は初演だ。
 主役は母於継(おつぎ)と妻加恵(かえ)そして青洲の三人。姑と嫁が青洲をはさんで麻酔薬の人体実験を張り合う場面が白眉だ。言い出したのは母。年寄りにもしものことがあったら恥をかくのはわたし、と妻も譲らず、ふたりとも被験者になる。まず、ごく軽い薬で一昼夜寝た母。次に強すぎる薬で三日三晩、眠り続け後遺症まで出た妻。まだ薬完成には程遠い。三回目はまた母。老齢を心配してふたたびごく軽い薬。寝たのは四時間ほど。でも看病していた嫁に何日ぐらい眠ったのか問えば、幾日過ぎたかよくわからないと答える。姑は目覚めも爽快で薬はこれでやっと成功だと喜んでみせるが、嫁は今度の薬にも強い麻酔薬は入っていずアルコールで酔って寝たようなものと知っていた。なにかにつけ張り合う姑に一矢報いるつもりで短い眠りであったことを明かさなかったのだ。満足顔の母が何日も寝たから空腹だと娘に告げる。すると、なにを冗談いっているのだ、薬を服用したのは今朝で、まだ昼前だと言われ、母は嫁の仕打ちを知り、泣き伏してしまう。ただ、薬は嫁と同じものであると信じて疑わない。
 四回目、妻が薬を飲んだ。今度は眠り過ぎることもなく、睡眠中に刺激しても痛みを感じたり暴れることもなかった。しかし目に障害が出た。前回の薬毒が進み失明してしまったのだ。姑は、同じ薬でどうして自分には障害が起きず、嫁にだけ起きるのかと不審がる。青洲はこともなげに妻の薬がずっと強いものだったと母親に明かす。聞いて愕然とする母。そしてこのセリフだ。
 「うちはなんにも知らなんだやしてよし」(わたしはなんにも知らなかったんです)と紀州弁で語る母。さらにこう言う。「そのことを加恵さんは知っていなさったんかのし?」(その事実を嫁は知っていたのか)と搾り出すように聞く。すると、盲目で失意の底にいるはずの嫁がにっこり笑って「はい」と答える。母はそこにくずおれてしまうのである。
 二回目の実験の際、自分の身体でようやく成功したと姑が有頂天になっているとき、短時間の事実を隠し、あえて教えなかった嫁。そして自分が飲んだのは二回とも形だけの薬と知っていて教えてくれなかった嫁。悔しさと恥ずかしさ、そして嫁から受けた教えない、知らせないという消極的仕打ちで母は完全に負けた形となり、次の幕ではもう仏壇に入っている演出が一般的だ。
 まさに嫁姑戦争をも描いてすぐれた作品だ。これだけを読めば、知っていることを姑に知らせず優越感を抱く嫁は最低だと思うだろうが、ここに到るまでに、美しく、如才なく、世間的には嫁を大切にしているようにしか映らない、できすぎた姑像が見事に描かれ、だれにも理解してもらえない嫁の悔しさが観客にはよくわかるので、この逆転劇には度肝を抜かれる。


 それにしても紀州弁の優雅なことばづかいもこの芝居の重要な要素だ。
 わたしがホテルのフロントマンに腹を立てた理由はもうひとつある。ひとことも「申しわけありません」と謝罪しなかったことだ。まったくすまなさそうな顔をしない三人の男女従業員の態度に愕然としたのだ。
 芝居で加恵さんを演じた水谷八重子、坂東玉三郎、富田靖子らのようにうつくし(美しい)女性がうっつい(美しい)紀州のことばでこう言ってくれたらすぐ許したのにね。 
 「まことに 申し訳のないことやのし」
 「どおぞ ゆるいていただかいて(お許しください)」と。



葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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