わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第25回】  おじさまは不潔よ →バックナンバーに戻る

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 こう表題を書いた文字を見て笑ってしまった。大時代な日本語。そして、こんなセリフ口にする潔癖女性がいるかな?と思ってだ。
 古いはず。このセリフが出てくるのは50年以上前の映画である。小津安二郎監督の「晩春」。主演は原節子。伝説の女優ならではのセリフというべきだろうか。
 「晩春」というタイトルは、婚期が遅れたひとり娘、紀子のことをさしている。父は男やもめの学者。笠智衆が演じる。娘は、親しく通ってくる父の助手に好意を抱くが、すでに婚約者がいた。父の妹、つまり叔母役の杉村春子が見合いをさせようと奔走する。なかなか乗り気にならない紀子。仕事を持っているわけではなく、手間のかからない父との二人きりの暮らしが快適なのだ。まさに晩春の陽だまり状態。
 そこで、いっそ父親を再婚させてしまえば、と杉村春子が兄に再婚話を持ち込む。相手の美しい未亡人は三宅邦子。品のある上流夫人の雰囲気。ほんとうに昔の女優は違うなあと見とれてしまう。
 その見合い直前、父の友人で紀子も小さいころから知っている「おじさま」小野寺と偶然出会う。この役がちょび髭を蓄えた、いかにも好色そうな中年男。三島雅夫が演じる。再婚したばかりだ。小料理屋で酒をすすめながら、くだんのセリフ、
 「不潔。おじさまは不潔よ」
 もちろん親しさゆえの揶揄なのだが、一面の真実は父と比べているからだろう。
 そんな研究一筋の「潔癖」な父に見合い話。複雑な思いの紀子はいらいらする様子だ。見合いの席は能楽堂。能楽堂は映画館や通常の劇場と違って正面の客席だけではない。舞台が客席に突き出た形なので、正面から見て左側に90度違う角度から見る、脇正面という席がある。橋掛かりと舞台に囲まれた部分だ。つまり正面にすわって舞台を見る視線を斜め左に振ると、脇正面に座っている人の顔がはっきり見える。この構造をうまく生かして笠智衆と原節子が正面に、脇正面には三宅邦子が座っている。娘は嫌でも美しい未亡人の方へ目がいってしまう。すると、それまでやさしく、明るい表情しか見せていなかった娘の表情が暗く怖い表情になる。にらみつけるわけではないが、なんとなく唇の端がめくりあがってくるような感じに見えるから不思議だ。このシーンが小津と原が作り上げた白眉。つまり、セリフはないが「おとうさんは不潔」という思いと、相手の女性に対する憎しみに近い感情が顔だけで表現される。
 能楽堂を出た父と娘。話しかける父に険しい表情をみせ、用があるからと並んで歩いていた道の反対側に渡ってしまう。真っ白い中央の道が親子の亀裂を描いて鮮やかだ。

 この能楽堂での作品が「杜若(かきつばた)」である。場所はかつて在原業平が詠んだ「かきつばた」の歌の地。花の精が現れ、旅の僧に故実を語るという幻想的な内容だ。映画のエンドタイトルには字幕で「杜若 恋ノ舞」とある。これは杜若の精が水に自分の姿を写すという場面が加わる。その装束はかつて業平が恋した二条の后の長絹、烏帽子は業平のもの。恋の形見を身につけている花の精が橋掛かりまで進んで見せる動きだ。しかし、映画にその場面はない。つまり字幕に「恋ノ舞」という文字を出すことに意味があったのではないかと考えられている。
 「恋」は娘の父に対する禁断の愛という解釈も成り立つ。しかし映画監督、篠田正浩はそれを否定する。つまり、能は見る人の数だけいかようにも解釈がわかれる芸能だ。小津監督もそれを狙ったのではないかという。


 それから数日後、紀子は自分の見合い話に応じ、結婚話がまとまる。うれしそうな表情は見えない。父と娘は思い出に京都へ旅に出る。清水寺で、「不潔」といわれた小野寺とその再婚相手の妻、娘と再会する。
 「のりちゃん、やっぱり不潔か?」と大きな声で聞かれて、はにかんで、たたくまねをする。意外にもすてきな再婚夫妻に感心したからだ。しかし父への思いはまだ複雑だ。その夜、宿で布団を並べ、
 「わたし結婚しないで、おとうさんと、このままふたりで暮らしてもいいのよ」という。笠智衆は聞いているのかいないのか、いびきをかく。次の場面は飾り棚の壺が映るだけ。ここになまめかしさや妖しさを覚える観客もいれば、単なる和風旅館の夜の静かな点描ととる人もいる。解釈が別れる。能と似ている。
 翌朝、あの笠智衆の朴訥な口調で「はじめから幸福な結婚などない。幸せは作ってゆくものだ」と、しみじみ語る。「母さんだって、台所の陰で泣いとった」といい、結婚を逡巡する娘を諭し帰京する。
 父親は実は未亡人と再婚することはない。娘を家から出てゆかせるために、見合いだけしたのだった。結婚式の後、ひとりぼっちになった父親の夜を描く。これまで何度も映し出される室内からはミシンが姿を消している。存在していたものが消失する寂寥感。小津の見事な映像表現。ラストシーンは鎌倉の打ち返す波。人生はこうして繰り返すという暗喩であろう。
 昭和24年封切り。しかし戦争の爪あとを一切映さず、一貫して鎌倉、江ノ島、銀座、音楽会、能楽堂、京都と日本の美しい文化を舞台に、平和なあたりまえの家庭生活と家族を描く小津監督の日本人としてのメッセージが痛いほど伝わってくる。
 この作品で登場しない人物を篠田監督が教えてくれた。母親だ。会話には登場するものの仏壇の写真も回想シーンもない。しかしながら、娘の心を、夫の老後を支配している。「不潔」ということばも母という欠落の存在が娘に植え付けた倫理なのかもしれない。


 能「杜若」も清浄な水が支配する土地に、亡霊のように現れ、恋の思い出衣をまとう。入内することが決まっていた二条の后と愛を交わした業平。その思い出を流離の旅先で「からごろも着つつなれにしつましあれば」と詠い、題材に利用された花、杜若が娘姿で現れる。世の煩悩、清濁が裏表になっている。
 小津安二郎没後40年。原節子83歳。日本文化と人間心理の清濁を描いた二人は遠い。そして不潔なおじさまをとがめる女性も、業平も遠い、遠い。
 
     
     

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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