わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第28回】  蔦には枯れろとおっしゃいましな →バックナンバーに戻る

イラスト

 「鼻濁音が出ないので悩んでいます」
 「無声音がつい有声音になるのですが」
 アナウンサーをしているためか、こんな質問をよく受ける。日本語の勉強をしている人や朗読奉仕など文字を音にしなければいけない人の相談だ。そんな人たちでなければ、ふだんの生活ではほとんど区別しない音でもある。
 鼻濁音は、「私が料理します」や「中学生になりました」の「が」。鼻にかかった濁音なので鼻濁音といい、「んが」といえば、その音に近くなる。
 無声音は「ひたひた走る」「音を聞く」の「ひ」や「き」で、声帯を振動させずに発音する。のどに手をあてて一音ずつ出すとわかる。こんなことは本に書いてあるし、頭ではわかるのだが、実際は無意識に出し分けているのだ。いわば共通語の音使いで、育った地域、環境によって全く使い分けていない人もいる。実生活にはなんの問題もない。しかし視覚障害者ボランティアやスチュワーデスなど、音声だけでサービスする人はマスターしなければならない。
 無声音や鼻濁音は、強くなる音(おん)を和らげる効果がある。共通語だけでなく義太夫など浄瑠璃にも多用され、その組合せは耳に心地よく響いてくる。しかし、小説など書いた文字では表記できない。音で味わうしかないのだ。
 関西の人たちが東京弁や関東の訛りとしてジョークに多用するのが「しちゃってさ」といういいまわしである。上方の漫才師が急に似非(えせ)東京人を演じる時などに使われる。からかわれているのだが、それなりにおかしい。特に「さ」が「さあ」というざらついた音に聞こえる。もちろん東京人でも親しい間柄でしか使わない。


 そんな「さ」の美しい響きを聞いた思い出がある。女優、初代・水谷八重子のセリフでだ。代表作のひとつが泉鏡花の「婦系図(おんなけいず)」。名場面は「湯島境内」。俗に「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」というセリフで知られる芝居だ。
 白梅が月光に輝く日、湯島天神に、お蔦(つた)と主税(ちから)がふたり連れだって参詣に来ていた。相思相愛のふたりなのに、早瀬主税はこの夜、急に別れ話を持ちかける。まずは蒼白な顔をしてこういう。
 「お蔦。俺は死んだ気になってお前に話す」
 びっくりする柳橋の元芸者お蔦。深刻な様子で心に不安がよぎる。それを打ち消すように「さ」を使ったセリフ。
 「・・・・・そんな、まじめくさってさ。冗談なんかいわないでさ」
 さらさらいうことで妙な雰囲気をこわし、自宅に帰って、禍(わざわい)ごとの兆(きざ)しを打ち消してしまおうといういいかただ。
 しかし、主税は「どうか俺と別れてくれ、俺と縁を切ってくれ」とことばを重ねて決意を述べる。気でも違ったんじゃないの?とあきれるお蔦に「正気だ」と返せば、お蔦も「正気でいうわ」と、こう返事する。
 「そんなことはね、嫌なこってす」
女性の江戸ことばの残り香だ。そのあとのセリフにも再び「さ」。
 「こんなことはさ、愚痴なようで嫌だけどもさ・・・・・柳橋を出る時には、お友達に肩身の狭い思いをしてさ、おこわひとつ配って出たわけじゃないんですもの」
 文字で書くと下品になってしまう。下町育ちのさっぱりした「さ」は音で聞かなければわからない。「ね」に置き換えるとべたべたしてしまう。ことばも暮らしぶりも質素で、身奇麗な芸者あがりの女性像を聞き分けることができる。
 いつか胸を張って、早瀬主税の女房っていわれたいばっかりに、ひっそりと生きてきた。あなたから縁を切られるおぼえはないといい切るのだ。憤ってヒステリックに叫ぶセリフではなく、淡々と自分の境涯を語る。かえって哀れさがにじむ。そして、名セリフになるが、ここは俗にと書いたように「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」ではない。
 「切れるの別れるのって、そんなことはね、芸者の時にいうものよ。今のわたしには、はっきり死ねといってください」
である。
 この、きっぱりしたセリフに集約されてゆく心情が「さ」を連ねた静かなことばだったのである。
 原作にはこのあとに、
 「蔦には枯れろとおっしゃいましな」
とある。当代の水谷八重子は現行、割愛されているこのセリフを舞台で復活してみた。しかし劇団内部では否定的だったという。花柳章太郎や母の先代・八重子が磨き上げたセリフのバランスが崩れるといわれた。でも、わたしはこのセリフも好きだ。ちょっと小説的で演劇的ではないように感じるが、泉鏡花らしい気もする。目で見て素敵な文字が音になると説得力があるかどうかは違うが、二代目・八重子のセリフで聞いてみたいものだ。
 実際、舞台でお蔦は病み衰えて死んでゆく。主税という幹に絡まっていたからこそ生き生きしていた女性が樹木を離れ枯れてゆく。のちのお蔦を暗示しているセリフでもあるからだ。


 鼻濁音や無声音から書き始めたが、お蔦の「湯島境内」のセリフは総体的に鼻にかかる音で女性らしい甘えが伝わり、「さ」が無声化しているから哀れ多く聞こえるといえる。
 最後はクイズ。「参議院議員」の鼻濁音はどれでしょう。正解は最初の「ぎ」。こんなこと知って得意になっても駄目。ある地方では「国会議員」は「こっくわいぎいん」というほうが正解だから。

 
 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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