わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第32回】  別家に居候でございます →バックナンバーに戻る

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 大事件を巻き起こし、多くの被害者を出した宗教団体の教祖について、瑣末だが興味深いエピソードが報じられていた。若い頃住んでいた町のお寿司屋さんの話だ。よほど寿司が好物だったのか、よく通っていたらしい。いつも決まって食べていたのはひと桶600円の並。ずっとそうだったのが、ある日突然、超豪華な寿司になった。それも、ウニが一列、トロが一列と同じネタが行列する高価なもの。よっぽど金回りがよくなったのだろうと思ったというのだ。カルト教団が持つ集金力の凄さの一端だろうか。
 わたしがいいたいのは高級寿司が羨ましいのではなく、誰かがどこかで見ているぞ、ということなのだ。ネタということばで共通する落語、それも珍しい裁き話の古典落語を聞いて同様だなと思ったことがある。


 「帯久」という上方落語。現在では桂米朝と笑福亭松喬が伝えている珍しい作品。大阪では聞いていたが東京でも松喬を聞いた。なぜ一般的でないかというと面白くないからだと本人はマクラでふるが、その通り、おかしみの落し話ではないが、実は面白い。どちらかといえばサスペンス物、結末がどうなるのか、はらはらどきどきで聞き入り、爆笑こそ無いものの最後は拍手の嵐だった。
 大坂商人の物語。実に細かく人物を演じわけている。大店のご主人、しっかりものの番頭、数人の丁稚たち。みんな違って聞こえ、生活感のある話芸になっている。
 和泉屋と帯屋はどちらも呉服店。帯屋は久七という主人で縮めて「帯久」。これは悪人である。和泉屋は主人公の与兵衛。人徳もあり商売も繁盛している。そこに同業でもまったくはやらない帯屋が借金にくる。和泉屋はいつも無利子で必要なだけ貸し、酒もふるまう。帯屋もきちんと返金していたが、ある年末、百両という大金を返しにきた。大晦日で忙しいさなかだ。和泉屋は受け取りながら重要な客が帰るので見送りに座をはずした。畳の上に置き去りにされた百両。それを懐に帯屋はそっと帰ってしまう。あとのまつりだ。和泉屋は帯屋の仕業とはわかったが、自分の不注意とあきらめる。


 その翌年からふたりの運命は入れ変わる。帯屋はただで手に入れた百両なので「引き札」という大バーゲンセールをし、順調に稼いでゆく。逆に和泉屋はけちのつき始め。家族を病気で失い、挙句の果てに火事で一切をなくしてしまう。
 「貧すりゃ鈍する。便所にゆけば他人がはいっとる」と松喬は笑わせるが、このあとは深刻だ。和泉屋は病気に倒れ、別家の元番頭、武兵衛の世話になる。そして10年が経つ。ようやく床払い。61歳になってしまった。今と違って老境だ。武兵衛への恩返しに、今では豪商となった帯屋に下げたくない頭を下げて借金にゆく。かつて快く貸し与えていたことを忘れていないだろうという思いもある。しかし乞食扱いされ、太い銀煙管をぶつけられ額に疵。悔しさとみじめさで和泉屋は火付け、つまり帯屋に放火してしまうが、すぐに消し止められ、つかまってしまう。

 

 ここまでくると聴衆は可哀想な和泉屋に同情し、今後どうなるのか、あの憎らしい帯屋を誰か懲らしめてくれないかと思ってしまう。
 そして裁判。江戸落語なら大岡越前守の裁きというところだが、大坂の奉行は松平大隅守。和泉屋の放火は死罪に間違いなし。双方が関係者として呼び出される。話を聞いて奉行は帯屋の百両横領を疑うが、証拠も無い上10年前の事、帯屋は知らぬ存ぜぬの一点張り。しかし「誰かがどこかで見ていた」。
 和泉屋が百両失ってすぐ、今まで繁盛していなかった帯屋が新春バーゲンセールを期に隆盛になっていたことを奉行は調べあげていた。その特売セールとは「サラシ一尺でもお買い上げの方にもれなく景物進呈」という特売。当時、景品プレゼントをつけるなど考えられない商いで目立っていたのだ。
 帯屋はしっかり者の番頭の進言で罪にならない「物忘れ」にして百両返すことになった。しかし利子も払わなければいけないことになり聴衆は大喜び。吝嗇な帯屋は50年月賦にして証文を作り、奉行に出した。
 さあ、これからは和泉屋の罪。放火は火あぶりの刑。「こんがり焼いてくれ」と帯屋は憎まれ口。和泉屋の運命やいかに?
 奉行は帯屋が利子を払い終わってから和泉屋を火あぶりの刑に処すると判決をくだす。つまり50年後。今、61歳だから聴衆はほっとして大受けになるという名裁き。
 61歳は還暦が終わって「本卦返り」という干支が一回りしたことを差す。裁きの帰りがけに足元が老衰でふらつく和泉屋に奉行が年齢を尋ねる。「61歳でございます」と答えると「おお、本卦じゃのう」とやさしく返すが、和泉屋は「いいえ本家ではなく、別家に居候でございます」。これが下げだ。
 

 人情味溢れる裁判劇の幕。サゲとかオチというのは、きちんと前振りがあり、マクラで自分の干支などを話しながら「本卦返り」ということばを忍ばせておくから、最後にどっと受けるのだ。記憶に残す匙加減が落語家の手腕だ。そこを松喬は緻密に語って優れている。
 忍ばせるといえば「誰かがどこかで見ている」もバーゲンセール以外で忍ばせてある。それは和泉屋が大晦日、帯屋のいた座敷に戻って百両ないのに気付き、店の使用人に聞いて廻るところにだ。丁稚のひとりが同僚の貞吉が犯人だという。それは「最前、焼芋、買うたやろ。わし見てたら、いつも八文やのに十六文も買いよった。あの手荒い買いよう」というのだ。なんと怖いことではないか、いつもと違う金使いを他人は観察しているのだ。

 焼芋も寿司も一緒。それにしても、こんな名奉行、どうして落語や芝居の世界にしかいないのだろう。現代の裁判は時間も費用もかかり過ぎる。その上すっきりしないことが多い。
 以前「ハムレット」のセリフについて書いた。有名な「生か死か」や「生きるべきか死ぬべきか」などのくだりで悩める貴公子ハムレットのセリフの続きにはこうある。
 「不実な恋の悩み、誠意のない裁判のまどろこしさ、小役人の横柄なあしらい・・・」
 シェークスピアの時代から悩みは同じだった。だからハムレットは自分で復讐の刃をむけたのかもしれない。
 
それはともかく、みなさん手荒い買い方していませんか? 誰かといわず、わたしが見ていますぞ。その時は、しっかりご馳走してね。あれ? 駄目だこりゃ。

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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