わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第33回】  仇に思うな、コレ知盛 →バックナンバーに戻る

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 空港で手荷物検査の列に並ぼうとしたら、いきなり足に衝撃を覚えた。背後から蹴られたのだ。一瞬、えっ?と思ったら「並べよな」のひとこと、どうやら無意識のうちに割り込みをしていたらしい。といっても長い列ではない。入り口のレーンは4、5ヶ所あり、見送り人もたむろしている状態だった。横から割り込んだ形になったのはこちらに非があるのだが、足蹴という行為を受けたことに対するショックで暗然としてしまった。怒鳴るなり、肩を叩くなり、注意を促す方法はいくらもあろうにと、言い返そうと思ったがやめた。相手が身体の大きな若者で、口答えしたらもっと悲惨な目に会いかねないから尻尾を丸め「危うきに近寄るまい」と隣の入り口に並んだら、あっというまに通過。くだんの足蹴男より早く入れた。それにしても、なぜ暴力をふるうのか。世の中には口より手(足か?)、注意より威嚇が好きな人間がいるものだ。


 争う心、競う気持ちは人間が本来もっているものだけれど、人を傷つけたり、生命を奪うことを、それも集団で是とすることが戦争を生む。中東を見るまでもなく、わたしたち日本の歴史でも繰り返してきた。
 歌舞伎や浄瑠璃の題材では源平の合戦がある。平家の繁栄と没落、源氏の再興と源家三代の悲劇。天下を取り、奪われ、また争う。その一場面を切り取って描かれた戯曲には強い反戦メッセージもこめられている。
 そのひとつが「義経千本桜」。悲劇の武将義経を主役ではなく時代を映す鏡のように配し、死んだと思われていた平知盛、維盛、経盛が生きていたという設定だ。さらに佐藤忠信に化けた狐を登場させるなどミステリー性も帯びた傑作である。人形浄瑠璃、歌舞伎どちらでも人気だが、最近、同時に平知盛のくだりを観て、あらためて作者の手腕を覚えた。


 場面は「渡海屋」という海運業の店。主人は船頭の銀平。女房お柳と幼い娘お安が家族。実は平知盛と宮中に仕える乳母の典侍局(すけのつぼね)。お安はなんと安徳天皇というドラマチックな展開。この店に西国に赴く義経一行が泊まっていて、一気に海戦で全滅させようという知盛の企みである。
 壇ノ浦で亡くなったはずの知盛や安徳帝が町人姿をしている設定も面白く、知盛の亡霊が海上で義経に襲い掛かったという伝説を取り込み、白装束で幽霊の扮装に変わって正体を現すところが圧巻である。
 しかし知将義経はすべてお見通し。海戦も裏をかいて形勢逆転。平家の兵船をすべて沈めてしまう。ところは今の兵庫県大物浦(だいもつのうら)だが、観客に壇ノ浦の合戦を再現して見せる。ただ違うのは、二位の尼ならぬ典侍局に抱かれた安徳帝が入水しようとするとき、義経が制止し命を救うのである。
 主役は知盛なのだが、安徳帝がなかなかの存在感あるセリフを吐く。歌舞伎で安徳帝を演ずるのは子役だが、辞世を詠んだり、平家一門の安否を気遣ったりと大変な役。高貴で健気な様子も観客の胸に迫る。
 海戦に敗れ、一旦は水中に没した知盛は長刀を手に浜辺に辿り着き、ここでも激しく戦う。先刻の見顕しで美々しかった白装束も朱に染まり、顔面も血だらけ。役者は目の中に紅をさす。その姿は凄絶の一語に尽きる。
 瀕死の疵を負いながら、しかし知盛はあきらめない。守護してきた平家のシンボル安徳帝を奪われ、義経がかわって玉体を護り抜くと約束したにもかかわらず、怨念と憤怒を消そうとはしない。弁慶が首に数珠を掛け出家を勧めても引きちぎってしまう。身体の深奥から闘争心が匂い立つようだ。そのとき知盛はこういう。
 「そも四姓始まってより、討っては討たれ、討たれては討つ。これ源平のならいなり。生き変わり死に変わり、恨み晴らさで置くべきか」
 四姓というのは源氏、平氏、藤原氏に橘氏。いわば家同士の争いは昔からだという意だが知盛は悪霊のような雰囲気で怨念の炎を燃やす。そのとき、わずか8歳の安徳天皇が、このセリフを口にする。
 「われを供奉し長々の介抱は、そちが情け。今また、麿(まろ)を助けしは義経が情けなれば、仇(あだ)に思うな、コレ知盛」
 幼くして人倫をわきまえ、無用の禍根を末代に残すなと諭す英明さ。このセリフにこそ「義経千本桜」の普遍性がある。
 人を恨み続け、血を血であがなってはいけない。どこかで干戈(かんか)をおさめなければ戦乱は絶えないと教えてくれる。
 このセリフをきいて典侍局は、よくぞおっしゃってくれた。決して義経の恩を忘れてはいけない。自分が生きていてはあなた(天皇)のためにならない。なぜなら源氏が平家の敵だとわたしが教えたことになり、生涯さげすまれるからだと言い残し自害する。
 局の死も眼前にし、知盛は戦意を失う。さらに涙を流しながら、こうなってしまったのも父の清盛、専横のゆえとつぶやく。天皇家の外戚になりたいため姫宮を男子と偽って御位につけた報いとまで語る。
 もはや命運尽き恨みを捨て去り、碇を身体に巻きつけて巌頭から入水する知盛。その最期のセリフが、
 「昨日の仇は今日の味方。アラ、心安や嬉やナア」
 ここに平家のシンボルとしての知盛、さらに兄、頼朝に疎んじられ悲劇の死を迎える源氏のプリンス義経との生死や家名を越えた心の交流そして平和が成立する。
 美しくも哀しく、無残で豪快な幕切れは、まさに鶴の一声「仇に思うな」から生まれたのだった。

 

 歴史から学ぶことは多い。また架空の物語ではあっても平安を願う人々の魂は不滅だと教えてくれるのである。
 この浄瑠璃で学んだオマケ。武士の刀は人を斬る道具ではない。争わないために持つ。だから武という文字は「戈(ほこ)を止める」と書くではないかと銀平のセリフにある。なるほどね、抑止力としての槍刀? 芝居はいろんなことを教えてくれる。
 人が人を傷つけるとどうなるか。まして命を奪うことの重大さを身に置き換えて想像できるかどうかが人間の真価を決めるのだろう。
 わたしが蹴られた体験から文をおこしたが、蹴るといえばベストセラーに「蹴りたい背中」がある。綿矢りさという若き才能が花開いたのは結構なことだが、同級生の男子生徒を蹴るのは少女である。蹴りたい衝動を起こさせる少年が悪いのか、はたまた少女が暴力的なのか。時代が生んだ小説だ。小学生同士の殺人事件の起きる昨今。みなさん背後に気をつけてというしかないのかなあ。なんでやねん。
 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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