わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第34回】  人目の関のやるせなや →バックナンバーに戻る

イラスト

 叙情歌が好きな人は多いだろう。ゆるやかなメロディーが気持ちを落ち着けてくれるし、歌詞にちょっと難しい表現もあるが、それはそれで、豊かな雰囲気にしてくれる。
 春、高楼の花の宴(荒城の月)更けゆく秋の夜(旅愁)名も知らぬ遠き島より(椰子の実)などなど。高楼など、こどもがふだん使わない名詞があったり、ちょっと文語風のいいまわしがしゃれていたり、意味もわからず口ずさんで覚えたものが多い。
 「宵待草」もどんな花か知らなかったが、待てど暮らせど来ぬ人を というセンチメンタルな歌い出しと、かすれたレコード盤の音が時代を感じさせ大好きな曲だ。竹久夢二の歌詞はこう続く。宵待草のやるせなさ。今宵も月は出ぬそうな。
 月影も、恋しいあなたの人影も無い夜。やるせないということばがぴたりはまっている。虚しいでも寂しいでも哀しいでもない。この単語しかない。「やるせない」という形容詞は「やり場の無い悲しみや切ない思い、それを晴らすてだてがない」という意味だが、ちょっと虚無的な響きでもある。いつごろから多用されたのかは知らないが、辞書の出典例でみると近世の浮世本に散見する。江戸時代に好んで使われていたのだろうか。


 歌舞伎十八番「勧進帳」は人気の作品だが、能の「安宅」から生まれた。義経、弁慶の一行が頼朝の詮議を避けて、みちのくへ落ち延びてゆく逃避行を描く。安宅関で関守から不審に思われ、東大寺の勧進帳を読み上げたり、弁慶が義経に折檻をして危機を乗り越える設定も両作品、全く同じである。
 ただ、中世に作られた「安宅」が江戸期に歌舞伎作品に置き換えられたことで大きく異なるのは、なぜ関守の富樫が一行を通過させたかというところだ。能は義経主従かもしれないと疑念を持つが、一貫して弁慶が力で押し通す。作法どおり山伏の勤行を見せたり、勧進帳を力強く読み上げて権威をちらつかせるため、関守は「怖れをなし」て通してしまう。義経に似た怪しい強力(ごうりき=身分の低い従者)に疑いをかけ、一旦は止めるが、弁慶たちの今にも斬りつけそうな勢いに負けて、結局、通関させてしまう。もし、正式な勅命を受けた使節団なら大変な罪になってしまうからだ。
 ところが歌舞伎は違う。力強さはきちんと出しながらも、正しい修行を積んだ山伏であることを証明してみせることにより、富樫の心に尊敬の思いが溢れる。そして富樫は、逃亡者の一味だと確信した段階でも、主君を守って弁慶がこの関所で死ぬ覚悟だということを悟ってしまう。ここで、ともに武人としての心が通い合う。情が全面に浮かび上がる演出になっているところだ。


 このあとも能、歌舞伎は同じ内容なのに一線を画す。関を通過後しばらくして、富樫が酒をたずさえて侘びに来る。能では弁慶が、「油断するな。酒に酔わせて、われわれの心を奪おうとしている」とみんなに警句を発する。その意味のシテの詞はこうだ。
 「人の情けの盃に 受けて心を取らむとや」
 この部分が歌舞伎では、富樫が逃亡者と知った上で別れの盃を交わそうとしているのだとわかる。この一行を見逃した罪で自分も命を無くすことになるかもしれない。そんな一期一会の酒として描かれる。長唄の歌詞は、
 「人の情けの盃を呑んで心を止めよとか」
 心を取られてしまうのではなく、お互いの心も酒と共に汲みかわして、一期の思い出にしましょうとあなたはいうのですね。というジーンとくる内容にかわっているのだ。河島英五の「酒と泪と男と女」というパターン。
 女なんか出てこないじゃないかと思うなかれ。歌舞伎「勧進帳」には女性も出てくる。舞台は男ばかりだが、酒に酔って座興に弁慶が語る部分が長唄で若かりし日の恋物語になっている。生涯一度の恋だ。
 「アラ、はづかしのわが心、一度まみえし女さえ」
 「迷いの道の関越えて いままた ここに越えかぬる」 
 恋しい女性と逢瀬を楽しんだそんな煩悩の坂を乗り越えてきたのに、またここに越せないような大きな関が待っていた。と長唄の聞かせどころが続く。舞台は、ただ機嫌よさそうに弁慶が大杯で酒を楽しんでいるさまを演じているので、つい聞き逃しそうになるが、ここが肝心の名セリフであり名文である。そして表題の、
 「人目の関のやるせなや」
 恋人と人目を避けて会いたいのに世間の目があって逢えない。という内容に安宅関と自分たち逃亡者の身の上を嘆じている。これは遠まわしに富樫へ対し感謝の述懐をしているのだ。
 やるせない、わたしたちの気持ち。富樫さんあなたならわかってくれますよね。
 ここが泣かせる、聞かせる、見せる。まさにハイライトだ。
 「やるせない」ということばは、武家社会の論理になじまない脆弱さを秘めている。能の「安宅」には一語も使われていない。そのことばが「勧進帳」で採用された。町人文化が栄え、曲りなりに泰平の世に生き続けた庶民の心情によりそう、ふさわしい表現だったのだろう。さらに男のドラマに女を潜ませたことによって、心の関を立体的に伝えてくれているのである。

 

 「宵待草」もやるせないが、抒情曲に欠かせない「影を慕いて」も名曲だ。
 幻の影を慕いて雨に日に
 恋人の幻影を思慕する姿。雨の日も、晴れの日も、そして夜さえもという思いの歌詞が続く。
 月にやるせぬ わが思い 
 古賀政男は作詞作曲ともにこなした。しかし人口に膾炙し過ぎて、誤りも残してしまった。「やるせない」の語尾変化で「やるせぬ」にはならないのだ。「やるせな・く」「やるせな・き」などにはなるが、「やるせぬ」には「ならぬ」のである。
 でもメロディーにぴたりとあてはまる語数なので、この歌は誤用が訂正されず、名曲のまま歌い継がれてきた。
 ちなみに、「宵待草」の二番を補作したのは西条八十。「宵待草の花が散る」と書いて発表。しかし、散らずに萎れる花だと指摘され、「宵待草の花の露」に訂正したという。
 「やるせぬ」と「花が散る」。どちらの間違いが、やるせない? いや、ゆるせない?

 *「影を慕いて」(作詞・作曲 古賀政男)より。
 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
閉じる トップへ
new_copyright2003.gif