わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第42回】  悲しむなかれ わが友よ →バックナンバーに戻る

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 「楽しく過ぎた六年の 学びの庭よ さようなら・・・・」 小学校の卒業式で級友と歌った曲。題名も全部の歌詞もすっかり忘れてしまったが、メロディーと歌いだしのところは明確に覚えている。「今日は別れの春の窓」という中ほどのところが好きだった。代表的な卒業式ソングは「仰げば尊し」。この曲も大好きな歌だが、当時は新しい風が学校教育に吹き始めた頃。卒業式の形式や歌も変わり始め、こうした新しい曲が採用された時期だった。
 春は別れと出会いの季節。高校の卒業式での曲は覚えていないが、大学に入って出会った歌がある。それ以来いつも口ずさむのが今回とりあげる抒情歌だ。いまでも送別会や同窓会の終わりによく歌う曲である。その名も「惜別の歌」。詩は島崎藤村。
  遠き別れにたえかねて
  この高楼にのぼるかな
  悲しむなかれ わが友よ
  旅の衣を整えよ
 高楼は「たかどの」と読む。「若菜集」に収められている原作の詩は「高楼」という題だ。哀愁を帯びたメロディーに漢詩の四行詩体裁。そのことばづかいは覚えたての頃、素直に耳奥へ、まなこへと馴染んでいった。
 二番の歌詞に、別れというものは世の中によくあることだけれど、
  流るる水を眺むれば
  夢はずかしき涙かな
 と結ばれていて、ここは男でもぐっとくる。さらに魅力的なのは三番。
  君がさやけき目の色も
  君くれないの唇も
  君がみどりの黒髪も
  またいつか見ん この別れ
 青春時代の青臭い心をくすぐる歌詞ではないか。今おじさん、おばさんになった同級生もそれぞれの唇、髪そして友を思い出しながら歌っている。


 と、ここまで歌詞を見てくると、若き男女の別れを「まだあげそめし前髪の」という「初恋」の作者らしい詩に、明治の音楽家が青春賛歌としてこの曲をつけてできあがったとばかり思っていた。ところが、曲は思いもかけぬ成立をみているのである。
 作曲者は藤江英輔とある。藤村と同時代の故人だと思っていたのだが違った。昭和生まれで健在の人だ。
 時は昭和20年。舞台は板橋にあった陸軍造兵廠第三工場。軍需工場だ。中央大学の予科生だった藤江は中本次郎という同級生とともに動員されていた。その中本が文学青年だった藤江に一枚の紙を見せた。そこには女性の文字で「高楼」が書かれていた。やはり動員されていた東京女高師の生徒から手渡されたという。「若菜集」を読んでいた藤江は、その夜のうちに作曲した。はじめに浮かんだフレーズは表題のここだ。
  悲しむなかれわが友よ
 しかし、実は島崎藤村の原作を一文字だけ変えていた。もともとはこうだった。
  悲しむなかれわが姉よ
 嫁ぎゆく姉に妹が別れを告げる詩だったのだ。藤江は明日をも知れぬ非常時の中「悲しむなかれ わが姉よ」を口の中で繰り返しているうち、いつしか「姉よ」が「友よ」にかわっていたという。そして、
  旅の衣を整えよ
 ここも、わたしは単純に旅支度という軽いイメージしかなかったが、衣は「戎衣(じゅうい)」つまり軍服を思い浮かべたのだ。さらには長唄「勧進帳」の「旅の衣は鈴懸の」という義経、弁慶一行が辿る落剥の旅の思いをも重ねたという。そして全体のメロディーが完成。これを音痴だった中本が真っ先に覚え、いつしか軍需工場の中で動員学徒の口から口に伝え広まっていったのである。
 それからひと月余り、3月末、中本次郎に召集令状がきた。藤江英輔からの「惜別の歌」という贈り物に感謝しつつ旅衣をまとった中本は再び帰らぬ人となった。詩を贈った女学生の胸にもこの歌は残っているはずだ。
 藤江はなぜ作曲できたのか。それは少年時代からバイオリンを習っていて音楽の素養があったからだ。


 「惜別の歌」は、しかし譜面が世の中に発表されないまま、戦後の日本でも歌い継がれ、いつしか作曲者不詳になっていた。そして訪れる「歌声喫茶」ブーム。さまざまな愛唱歌がそこから広まった。そんな人気曲のなかに「惜別の歌」があり、レコード会社がプロ歌手で吹き込んだ。その会社の担当者が藤江英輔を探し訪ねてきたのは発売の一週間前という。
 昭和30年代後半から訪れる高度経済成長。若者たちがハイキングやパーティー、音楽会など平和で豊かなひとときに肩組み合って歌う「惜別の歌」の「友」はまさに青春を謳歌する仲間を指し、決して死地に赴く友人は指していなかったはずだ。
 藤江は、好きな人には自由に歌ってほしいけれど百回に一度、千回に一度は思い出してほしいと、わたしに語った。明日という日がなかった青年たちが数多いて、そのひとりが国のために死んでいった「わが友」であり、永遠の別れに際し、藤江が作った曲であることを。
 藤江の幸運は召集を免れ、生き残ったことだけではない。卒業後、就職したのが出版社の編集部。それゆえ時代を超えた作詞者、島崎藤村の家族に会えたことだ。一番の詩、「姉」から「友」への藤江改作を認めてもらい、楽曲としての「惜別の歌」の作詞者に藤村の名をつける許しも得られたのである。

 

 都はるみのヒット曲「北の宿から」で阿久悠が書いた詩は、北国で恋人のために着てもらえないセーターを編んでいる女性の気持ちを綴っている。都はるみは引退前、この曲の大ヒットは嬉しかったけれど、こんな耐えるだけの女性を歌うのは嫌でしょうがなかった、と語っていた。しかし、復帰して、この歌を極寒の異国で口ずさんでいた人がいたことを知って、自分のあさはかさを恥じたとも話してくれた。それは北朝鮮に拉致されていた人たちの思い出だった。日ごとつのる寒さの中で思い出す「あなた」は恋人ではなく、生死も定かではない故国の家族、特に父、母のことだったと知らされたからだ。はるみはこうも言った。
 「歌は口からこぼれ出たとき、もうわたしの歌ではない。聞いているひとりひとりのものなんですね」と。

 わたしたちの愛唱歌は、まさにひとりひとりの「友」「姉」「あなた」を思い描いているのだ。紅の唇とみどりの黒髪を持つ「君」も人それぞれだろう。藤江さんには失礼だと思って聞けなかったことがある。それは藤江英輔の思い描く三番の「君」は「もしかしたらバイオリンの教室で一緒だった少女ではありませんか?」という質問だ。それはわたしの邪推でしかないのだけれど、藤江少年が一緒にバイオリンのレッスンをした少女の名前を巌本真理と教えてくれたからだ。後に日本を代表するバイオリニストになる巌本真理その人である。
 昭和の初めにバイオリンを奏でた少年と少女。戦争への不穏な空気が忍び寄る東京の住宅街。恐ろしい時代がやってくることを思いもしない裕福なこどもたち。やわらかな夕陽色の光景が目に浮かぶような話だったからだ。
 わたしは、そんなロマンチックな話とは全く無縁の学生時代を送っていた。だから「くれないの唇」をだれも「呉れない」んだ、と心で拗ねてふざけて歌っていたこともある。
 そんなことを思い出すだに「夢はずかしき青春かな」。字余りお粗末。
 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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