わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第45回】  こなたはむさとしたことを仰せらるる →バックナンバーに戻る

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 電車の優先座席はなるべく避けるようにしているのだが、乗ったときはがらがらにすいていたし、荷物もあったので腰掛けた。ところが、二つ目の駅から、車内は混み始め、三つ目の駅でお年寄りが乗ってきた。(真面目な)社会人としては、当然、立つべきなのだが、その日は死んだふり、いや寝たふりをしてしまった。たしかにお年寄りなのだが女性の集団で、どやどやとにぎやかなこと。「はい、あんたはこっちすわって」「はい、ここあいたよ」と仕切り屋のボスが大きな声。薄目を開けて観察すれば、みんなナップザックを背負い、軽やかなシューズも履いている。とにかく元気。そして、ぺちゃくちゃ。わたしは取り囲まれるような孤島状態。内心、「なーんだ、これから花見か山歩きに行くのでしょ。そちらははつらつ、こちらはげんなり。死んだふりしていよう」と不埒にも思った次第。そんな経験ありませんか? 高齢化社会でお年寄りが生き生きしているのは、いいことだけれど、われわれ「くたびれ中年おじさんの優先席」なんて、ないのかな。

 そんな折、珍しい狂言を見た。その名も「老武者(ろうむしゃ)」。普通、狂言はせいぜい大名やら、太郎冠者、山伏などが3人ほどで物語が展開する。しかし、この作品は12人も登場する。そのうえ能楽の四拍子といわれる笛に大小の鼓、太鼓も演奏し、地謡もつく豪華版である。
 ある宿屋に稚児を連れた旅人が一夜の宿をとる。稚児が美しいので地元の若者たちが宿にやってきて、ひと目みたいという。今でいうイケメンなら女性が押しかけそうだが、やってくるのは若衆連という男性ばかり。子方が演じる少年は華麗な装束に身を包んで由緒ありげな風情。600年前の稚児を愛した風潮を表した作品といわれる。
 座敷で稚児を賓客に若者たちの酒宴が催される。所望されて稚児が一指し舞い、若衆たちも次々と舞い謡いにぎやかな様子。
 そこへ土地の宿老(長老)がやってくる。この人物が狂言のシテ。老武者である。やはり稚児に会わせてほしい、そして長寿のために杯を受けたいと望む。外にも聞こえるほど楽しそうなやりとりが響いているからだ。しかし宿の亭主にやんわりと、表題のセリフをいわれる。
 「さてさて こなたは むさとしたことを 仰せらるる」
 「むさとした」というのは、むやみ、軽率不作法、といった意味だろうか。なぜ、「むさと」かといえば、あの宴会の若者の中には、あなた(宿老)の息子や孫もいる。もし、座敷に仲間入りしたら、みんな気詰まりでしょう、という。なるほど主(あるじ)らしいひとことだ。その上、稚児たちは忍びの旅なので遠慮して下さいとも伝える。すると宿老の怒るまいことか。
 「ヤアラ そちこそ、むさとしたことをいう」と怒り心頭。「むさとした」といい返されたことに「むさと」傷ついた。
 お忍びといっておきながら、若い者を座敷に通したのなら、自分だって会えるはずだ。もし、望みをかなえてくれないなら、もう、この宿場からお前を追い出してしまうぞ、という。威力業務妨害だ。これは「長」と名のつく権力者にままあること。しかし主は脅しに屈しない。
 「いよいよ こなたは かさだかなことを 仰せらるる」
 「かさだか」は「嵩高」。つまり「嵩」にかかって、いいつのる人と大憤慨。自分は決してあなたを通さない、と意地を張る。現代にこれだけ上司や権力者に媚びず、自分の思う正論を口にできる人物がいるだろうか。
 それなら踏み込むと実力行使の宿老。それをつきとばす主。老人に暴力を働いたなと、売り言葉に買い言葉で、覚えていろと、引き揚げてゆく宿老だった。


 座敷に戻った亭主は、ことの成り行きを告げ、もしかしたら復讐にくるかもしれないと心配すると、武器などもってきたら、こっちも防戦すると若者たちは片袖を脱いで、棒(櫂竿)を用意する。
 待つことしばし、さきほどの長老は、なんと烏帽子を着け長刀を持って、多くの老人仲間を引き連れてやってきた。やはり銘々が戦道具を持っているので、とてもおかしい。
 「老武者は 腰に梓の弓を張り 翁さびたる鑓、長刀を かたげつれてぞ押し寄せたる」
 宿の者を脅し、力で稚児に会おうとする。しかし酒機嫌の若者たちは、そんな年寄りの姿を見てどっと大笑いする。これでよけい、年寄りはカッカ、カッカする。
 老いたといっても、熊坂入道は63歳、斎藤実盛は60過ぎで討ち死にしたではないかと雄叫び、エイトウエイトウと声を揃えて襲いかかる。
 たかが酒宴のもめごとで、ここまでする?と思ってしまうが、武士の誇り、老武者の気概が伝わって、滑稽なのにどこか、切ないところなのである。
 結局、若者が「さすがは、親方たちだ」と感心して矛を納めてしまう。この急転直下が心地よい。武者の子孫たちは、いくら酒に酔っていても見るべきことはきちんと見ている。このへんが「カラオケ殺人」までしたり、無力な年寄りに暴力をふるう、現代凡俗人との大きな違いだ。
 老人を侮辱するどころか、年寄りをなだめるように付添って帰ってゆく。この終わり方が素敵に良い。格別なにか大きな事件が起きて争いが止むのではなく、同じ村や家に住む家族、親類という親密さに、いつしか変わり、一人の年寄りに一人の若者が後ろから付き添い、それも腰に軽く手を当てて、労わるように退場してゆく。ここを見逃してはいけない。あるべき人の道である。

 

 問題の中心人物である稚児という存在は、ちょっと特殊だが、美しい客人をもてなして楽しむ若者グループと、のけものにされた老人グループ。わかりやすい構造になっている。そしてなにより、昔とった杵柄ならぬ武器を持って、「おっとり刀」を絵に描いた姿で登場するさまが狂言味いっぱいの「老武者」だ。これがほんとの集団爺(示威)行動?
 あまりに単純な内容で、この稚児とはいったい誰なのかという疑問もわく。曽我の里からやってきて、ひと目を忍ぶ鎌倉への旅ということしか語られない。それゆえ曽我兄弟の一人という解釈もあれば、一般の稚児とみる捉えかたもある。演じる側、見る側の自由な発想でいいのだ。
 行儀よくしている稚児は、同行の従者にだけ「饅頭が食いたい」とか「やんま(トンボ)が来た」と突然いい、子供らしさをみせるが、宿の部屋に通されたとき笠を力強く床に打ち付けるので、はっきり発言する強い性格の一端をうかがわせる。いずれも従者には「しーっ」と制せられるのではあるが。
 稚児、従者、若者、老人いずれも男性で武家であることがわかる。それぞれの世代が持つ感覚の差をきちんと描いて面白い。無邪気さ素直さの少年、世代交代を力で見せようとする世代。かつての力を懐かしみ、誇り高い世代。いずれは通る男の道を見せる舞台を、当時の武士たちはどう楽しんだのだろう。オニヤンマを追い回した武士の卵がいずれゆきつく己が老いの姿を見たのだろうか。


 ところで、最近、若武者という飲料のコマーシャルが出ている。今時よくそんなことばを思いつくものだ。義経や平家の公達のイメージもあるのだろうか。新茶の若葉色と切れの良い味につながるのだろうか。颯爽とした名詞がぴったりだ。でも、ネーミングばかり先行で、今の世の中そんな若武者に出会ったことなんか無いもんね。
 え?だれです、死んだふりして席を譲らない君はなんなのかって? はい、わたしは若葉ならぬ濡れ落葉の落武者です。

 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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