わたしの好きなお国ことば 葛西 聖司
  【第47回】  外(ほか)という字の 色気がござんすか →バックナンバーに戻る

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 少年が親を殺傷したり、友人に危害を加えたりという事件は、これまでにもままあったことだろう。でも昨今のように、凶器を準備し、胸のうちを日記やインターネットで告白あるいは予告し、確実に実行し、という計画性にはびっくりしてしまう。まして凶器に複雑な爆発物をこしらえたり、殺した後の証拠隠滅に時限装置でガスを爆発させたりという知恵のありようは、われわれの及ぶところではない。そんな賢さが他に生かせたらと思うのだが。
 でも、やはり賢くないな、子供だなと思うのは、殺すことが最終目標で、その次を考えていないことだ。犯行後は呆然としていたり、映画館や温泉旅館に行ったものの、目的があるわけでもない。悲しすぎる終わりかただ。
 そして学校側や近所の子供評は、「まじめ」「おとなしい」「めだたない」「ふつう」に決まっている。「あの子がなぜ?」「信じられない」「思いがけない」といったものである。そんなことを昔の人は「思案のほか」といった。そして「思案のほか」の不測の事態にも思いを巡らし、分別し危機管理をしていた。今回はそんな「思いがけない」セリフについて書こう。


  「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」という歌舞伎は中村勘三郎が勘九郎時代、ニューヨークで上演し、話題になった。なんとNYのポリスマンが登場する演出であった。これは殺人事件を扱った作品だからだ。犯人の団七九郎兵衛があちこち逃げ回る、腰には血だらけの刀。義父(舅)を殺して追われるのが大詰めだ。それも大坂の夏祭のさなか。にぎやかな祭囃子がきこえ、竿灯提灯や神輿が行き交うなかで繰り広げられた惨劇なのでそんなタイトルがついている。
 しかし、思いがけないのは、その殺人ではなく、団七と義兄弟である一寸徳兵衛の女房、お辰にかかわるできごとだ。団七九郎兵衛と一寸徳兵衛は侠客である。江戸の粋な大親分ではなく、ならずものに毛がはえた程度。しかし男気が強く、頼まれたことは守り通し、世話になった人への恩義は忘れない。
 物語は父の代から恩ある主家の若様を、その恋人とともに悪の手から守るべく団七が奔走するさまを描いている。この若様が女性にもてる軟弱二枚目。男らしい団七とは対照的だが、非力なので守らなければならない。大坂の街中では人目につくのでかくまいきれなくなり、備中の国許へ送っていくことになった。それを言い出したのは徳兵衛の女房、お辰だ。侠客の妻らしくさっぱりして、口も立つし、腕にも覚えがありそうな雰囲気。舞台に登場するときは日傘を差して扇子を使いながら、はっとする美しさを見せる。訪ねる先は三婦(さぶ)という船宿。三婦は老侠客で団七の先輩にあたる。頼りになる存在なので、この家に若様を預けてあった。お辰が若様に付き添って国許まで送ってゆくことを提案すると、三婦の女房がそれなら安心と賛成する。しかし三婦は二の足を踏む。なぜかと問いかけるお辰に三婦はこういう。「こなたの顔に色気がある」からだと。
 つまり、ただでさえ女性好きの若様だから、人妻とはいえ若い女性を伴につけることが、はなはだ心配なのである。お辰の身持ちが固いことは信用できても、若様のことだからなあという、人生経験豊かな三婦らしい懸念である。これが心配。万万一にもそんなことはなかろうが・・・でもねえ。という老婆心(老爺心)だ。
 「あながち こなたに限って そうしたことは あるまい。 けれど 思案の外(ほか)ということがあるによって また疑うまいものでもない」
 ここで「思案の外」ということばが出てくる。さらに、お辰の顔が「いがんで」いたり半分「そげて!」でもいたらなんとも思わないんだけれどと、凄いことをいう。それほど美形なのだ。だから、もしものことが起これば、責任ある団七も俺も男がすたる。
 「間違いはあるまいけれど 外(ほか)という字で預けにくい」
 まさに年長者の理詰めの説得に、さすがのお辰も返答のしようもなく、黙り込む。しかし、この理屈がとんでもない行動をお辰にとらせる。
 この日は夏祭当日、祝膳を三婦の女房が幕開きから準備しているところが描かれる。座敷ではあるが角火鉢のうえでアジを焼いていた。炭がおこり、その上に鉄弓(焼串)が残っている。じっとうつむいていたお辰がいきなり、鉄弓を掴んで自分の顔に押し当てたのだ。苦痛の悲鳴。お辰は気絶してしまう。慌てふためく三婦夫妻。介抱されて正気に戻ったお辰の右頬は赤く焼け爛れている。そこで表題のセリフだ。
 「なんと三婦さん この顔でも 思案の 外という字の 色気がござんすか」
 まさに「思案の外」の行動で、三婦がおそれた色気を否定した凄まじいアクションだ。それを聞いて三婦はひとこと。「できたっ!」と発し、「えらいものじゃ・・・」と感心する。つまり、若君への付き添いを許可する。
 喜ぶお辰は、これで夫、徳兵衛の男も立ち、夫への言い訳も立つというが、まずはじめに「それで わしも立ちまする」という。この「立つ」が頻繁に出てくるのがこの芝居。
 三婦が若様をお辰に預けてはこの俺の顔が立たないというのが、そもそもの発端だった。お辰はそのことばにむっとして、お前の女房に頼まれて一旦、引き受けるといったからはたとえ三日でも預からなければ顔が立たぬといい返す。いきおい当事者の夫、徳兵衛の顔も立ち、団七の顔も立つ。
 これは男伊達といわれた侠客の矜持を示すことばだ。男を立てるから男伊達。男を売り物にする侠客の女房も女伊達。女がすたる、とか、女の顔が立つ、といういいかたをする。「立て引き」の世界の宿命として、「おたつ」という名の女房が「顔」を焼いた。象徴的なできごとだったのだ。
 このあとの殺人事件は舅殺しだ。これも団七とよこしまな舅が、男が立つ、立たない、顔が立つ、立たない、でいさかい、舅は雪駄で団七の額を割る。その血を見て、「コリャコレ 男の生き面(つら)を」と、まさに顔を潰されたことに激昂することから殺しへとつながってゆくのである。
 

 顔を傷つけられたことで分別の域を越え、切れた男と、顔を傷つけることで事態を丸く治めた女。女性のほうの思案が深いかも知れない。歌舞伎は役者が美しい女形の顔に血糊をつけて独特の容貌になる。原作の浄瑠璃にはないのだが、お辰が花道を去ってゆくとき三婦は、そんな顔にしてしまって夫の徳兵衛に嫌われないかと心配する。ところが、お辰のこんなセリフが加わる。
 「こちの人の好くのは ここじゃない ここでござんす」
 最初の「ここ」は顔を指差し、次の「ここ」は胸を叩く。つまり「顔」より「心」だという。なんたる自信か。
 そんなお辰が顔を焼いた直後、三婦は頼もしい女房だと感心しながら、なぜ男に生まれてこなかったのかといい、さらにこんなことをぽつりとつぶやく。
 「あったら 物を落としてきたの」
 なにを落としてきたか? それは、じっくり「思案」すべし。

 
 

葛西聖司さん 葛西 聖司 
(かさい・せいじ)
1951年、東京生まれ。中央大学法学部卒業とともにNHKに。現在、NHKエグゼクティブアナウンサーとしてテレビ、ラジオで活躍中。日本演劇協会会員。義太夫協会会員。著書に「名セリフの力─日本語をきたえる76のことば─」(展望社)「能の匠たち」(小学館)など。
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