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この頃ニュースや新聞で「杜撰(ずさん)」という語が非常に頻繁に用いられます。年金問題、一億円のトナー代など、まさに「どんだけ〜」という流行語がふさわしい状況です。今回はわが国の将来のために(?)、この語の用例を紹介します。
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「杜撰」は、宋(960−1279)代にできた語で、詩人杜黙(ともく)の作る詩が音律に合わないことが多かったためとも、道家の書五千巻を撰した杜光庭(とこうてい、唐末の人)に由来するともいいます。いずれにしろ、もともとは「まるで杜がやったように、いいかげんな撰(詩文の編集・著作を意味します)である」という意味の言葉でした。
丁寧な著作を「杜撰」でほめる
*文士としての兆民先生〔1907〕〈幸徳秋水〉二「先生は実に仏蘭西学の大家たるのみでなく、亦漢学の大家として諸子百家窺はざるはなかった<略>故に其翻訳でも著作でも、一字一字皆な出処があって、決して杜撰なものは無かった」
その解説
中江兆民の弟子、幸徳秋水が恩師の文章をほめまくる随筆からの引用です。秋水は
「先生の文章は其売れ高より言へば決して偉大なる者では無かった」、
「彼の『一年有半』『続一年有半』すらも、若し死に瀕しての著作でなかったならば、あの十分の一も売れなかったかも知れぬ」
と、サッパリ人気がなかったことを認めた後で、
「先生の文章は当世に売らんが為めには、寧ろ余りに高すぎた」
と恩師を地べたから天に持ち上げるのでした。
売れない作家先生を担当する編集者氏はぜひ一読を。
(図書館で検索してもタイトルでは見つからないかもしれません。明治文献発行『幸徳秋水全集 第八巻』で検索することをすすめます)
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現代日本では「杜撰」は、手抜き、ルーズ等の意味で用いられる場合がほとんどです。ニュースでは「管理」「経営」「会計」などの語とセットで用いられます。
仕事のいいかげんさを批判する
*墨汁一滴〔1901〕〈正岡子規〉六月二十八日「そのほか君の前に書画帖を置いて画を乞ふ者あれば君は直に筆を揮ふて咄嗟画を成す<略>往々粗末なる杜撰なる陳腐なる拙劣なる無趣味なる画を成す事あり」
その解説
文中の「君」は子規の親友だった画家、書家の中村不折のこと。子規は不折に対してよりも、どんなものでも喜ぶ依頼者の眼力のなさに呆れています。
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日常会話では「○君は杜撰だ」「杜撰な性格」などの形で、人物を批判する場合に用いることも多いものです。ニュースでは一般に「杜撰な社長」「杜撰な大臣」など、性格を全体的に否定するような表現は避け、「杜撰な経営」「杜撰な監督」などを非難します。
いいかげんな人をけなす
* 正法眼蔵〔1231〜53〕仏道「いまの杜撰の長老等、みだりに宗の称をもはらする。自専のくはだて、仏道をおそれず」
その解説
現代語にすると「いまどきのいいかげんな長老たちは、宗派の呼び名を乱用しているが、それらは勝手なやり方であり、仏道への畏敬を欠いた振る舞いである」。
著者の道元は曹洞宗の開祖ですが、生存中は宗派を名乗っていません。彼は正しい仏法に真理はひとつであり、宗派に分かれることはまちがっていると考えていたのです。
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次のような用法はあまり一般的ではありませんが、目上の人物に手紙を書くときなど、何かの折に使えるかもしれません。プレゼンテーションの締めくくりの挨拶にもよさそうです。
「杜撰」で謙遜する
*創作家の態度〔1902〕〈夏目漱石〉「杜撰ながら自分の考では、世間一般の科学的精神が、情操の勢力より比較的強くなって、平衡を失ひかけるや否や、文壇では情操文学が隆起して参りますし、又情操の勢力が科学的精力を圧迫する程に隆起してくると、客観文学が是非とも起って参る訳だと考へます」
その解説
講演からの用例です。漱石は客観と情操の二大潮流の「右へ行ったり左へ寄ったりするのは、つまり態度丈の話で、此態度から出る叙述は決して繰り返されるものではありません」と述べています。
「杜撰ながら私の考では」は、「杜撰ながら私見では」といいかえられますが、もしあなたが社会保険庁に関係しているなら漱石を真似しないほうがよいでしょう。
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杜撰という漢字、見たことはあったけど、読み方を知りませんでした! ここで初めて知りました。
これからもこちらでいっぱい勉強したいと思います。
2007年06月28日 01:05