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毎日新聞が今月のはじめに行った世論調査によると、成人年齢を20歳から18歳に下げることに6割が反対で、そのうちの69%が「精神的に未熟だから」を反対理由としたそうです。この「未熟」とは一体どのような人にふさわしい語なのか、3つの用例から学びます。
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「未熟」は、作品、技芸などの程度を表すことばとしても用いられます。ほめることばではありませんが、単なる「下手」とも微妙に異なります。
「未熟」な釣り人の共通点
*幻談〔1938〕〈幸田露伴〉「釣れないといふと未熟な客は兎角にぶつぶつ船頭に向かって愚痴をこぼすものですが、この人はさういふことを言ふ程あさはかではない人でしたから」
その解説
「この人」は、その日なぜだか全然釣れなかったにもかかわらず、「いつもの通りの機嫌」で帰ります。だから、露伴にとっては「未熟な客」ではない。露伴が釣り人に「未熟」さを感じるのは、釣りの腕前そのものよりも、むしろ船頭に言っても仕方のない愚痴をこぼすような「あさはか」さであったようです。
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「未熟」は謙遜にもよく用いられる語です。若い人にふさわしいのはいうまでもありませんが、中高年が使ってもかまいません。その場合は、いつまでも努力する謙虚さを示すことができます。
謙遜の「未熟」
*懶惰の歌留多〔1939〕〈太宰治〉「なんのことは、ない、すべて、これからである。未熟である。文章ひとつ、考へ考へしながら書いてゐる」
その解説
太宰治が31歳のときに執筆した作品。「やはり、三十一歳は、三十一歳だけのことしかないのである。<略>戦争と平和や、カラマゾフ兄弟は、まだまだ私には、書けないのである」とも述べています。太宰治がここでいう「未熟」は、実力不足の状態であると同時に、「すべて、これから」という未来がある状態といえます。
なお、トルストイは『戦争と平和』を30代後半〜40代初めに執筆、ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』を50代後半に執筆しました。太宰は満で38、数えで40の年に自殺しますが、この作品では「長生きをしてみるつもりである」と書いています。
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「未熟」と呼ぶにふさわしい能力でありながら、自分よりも年長であるなど、「未熟」が似合わない人もいます。そんな人をけなすときは次の用例を参考に。
「未熟」と「無教養」
*雑文的雑文〔1934〕〈伊丹万作〉「現在の映画俳優は発声に関するかぎり未熟といふよりもまったく無教養であるといっていい」
その解説
日本でトーキー映画が制作され始めた時代の、映画監督によるエッセイです。「無教養」は、無声映画で仕事をしてきた俳優たちが、声について意識し、訓練したことがないことを意味しています。
このように「未熟」と、学んだことのない「無教養」を区別するやり方は、さまざまな事柄に応用できます。たとえば、選挙年齢の引き下げに反対なら、「現在の18歳は政治に関するかぎり未熟というよりも無教養である」といえるでしょう。
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