イラスト:約8秒で画像が切り替わります【第26回】 文を乞ひ返し
 平安時代、恋の通信手段は一にも二にも手紙である。
 電子メールも電話もないんだから当然だが、性愛と政治が合体していたような当時、手紙にかける貴族の思いは熱かった。気の利いた和歌に思いを託すのはもちろん、紙の質や色、香りに気を配り、花を添えたり、紙だけでなく葉っぱや瓜、蓮の花に和歌を書いたりして、差別化を図ったりもした。
 結婚前はデートどころか、女の顔を間近で見ることもできなかった平安貴族は、手紙一つで趣味教養、性格や考え方までアピールする必要があったのだ。
 それだけに、手紙に関わる「事件」もある。多いのが紛失や宛て先違い。
 郵便ポストに入れれば手紙が届くわけじゃなく、召使に手紙を託して、相手に届けるわけだから、使いの者がいい加減だと途中で落としたり、手紙を強奪されることもある。ピッと送れば相手に届くメールとも違って、当時の手紙には危険がいっぱいだったのだ。
 自分の送ったラブレターが、無事、恋人に届いても安心できない。
 『源氏物語』の女三の宮のように、不倫相手の手紙を、敷物の下に隠し忘れて、夫の光源氏に発見されることもある。今だって恋人に携帯をチェックされ、浮気が発覚することもあるから、これは似たようなものかもしれないが。
 平安時代の手紙事情で恐ろしいのは、恋人(とくに男)が、自分にきた手紙を他人に見せびらかしたり、どっちの手紙が優れているか比べたりということが、娯楽になっていたこと、なのだ。

 他人にきた恋文を見るというのは、貴族の楽しみの一つだったのだろう。『宇津保物語』の「内侍のかみ」巻(諸本によって巻名が違う)では、
「ラブラブな二人にかわされた手紙の文面を見てみたいものだ」
とミカドが言ったり、二人の大貴族が、それぞれ女御になった女たちに、昔もらった手紙の自慢をするうちに、
「どっちの手紙が優れているか、見せっこしよう」
という話になったりする。二人は、
「どうせなら何か賭けよう」と、相談。
「そうだ、自分の子供を賭けようぜ」
と、おのおの娘と息子を賭けるのだが、結局、どちらの手紙も筆蹟・文面、優劣決め難くて「引き分け」になり、男たちは、互いの子供同士を結婚させることで決着をつける。子供を賭けの賞品にして結婚させるという設定は『源氏物語』にもあるから、最初からそういう魂胆だったのかもしれないが、現代人としてはドキッとさせられる。しかも天皇妃が独身時代にくれたラブレターを見せ合うわけだから ・・・・・
 『源氏物語』の「帚木」巻で、男たちが女について論評する有名な“雨夜の品定め”も、宮中での光源氏の宿直部屋で、光源氏へきたラブレターを、頭中将が棚から勝手に取り出して、「見せてくれ」と頼むシーンから始まっている。『源氏物語』によると、本命からきた大事な手紙はそこらの棚になど置いておくはずもなく、それらの手紙はみんな二番手の女からきたものだというが、当時の手紙は、今と違って、他人の手を介して届けられ、届けられたあとも他人に見られる可能性があった。だから、当然、他人に見られることを前提に、気をつかう必要があった。
 光源氏は、妻の女三の宮に不倫相手からきた熱々の手紙を発見した時、真っ先に、
「私が若い頃は、手紙が落ちて人に見られたりするといけないから、好きな思いをたくさん綴りたくても、抑えて書いたものなのに」と、男の軽率さを見下している。
 とはいえ、熱い思いに盛り上がった恋愛初期の男女のかわす文章がラブラブになってしまうのは、メール全盛の今も、手紙命の昔も変わらない。
 それで、手紙を人に見せびらかす文化のある平安時代、あとで、
「あんなこと、書くんじゃなかった」と悔やむことにも、なる。そのまま関係が続けばともかく、どちらかに恋人ができたり、不倫の関係だったりすると、なおさらである。

 で、古典には、自分がかつて恋人に送った手紙を、
「返してくれ」
と頼む記述が出てくる。『源氏物語』の作者の紫式部も、夫が自分の手紙を他人に見せたと知って、
「今まで出した手紙を返さないと、もうあなたの手紙に返事はしない」
と伝えているし(『紫式部集』)、『後撰和歌集』にも元良親王の作として、こんな詞書と歌が載っている。
“たまさかに通へる文を乞い返しければ、その文に具してつかはしける
 やれば惜しやらねば人に見えぬべし 泣く泣くもなほ返すまされり”
 親王が、つきあっていた京極御息所に「手紙を返してほしい」と言われたので、返却する手紙に添えて、
「破ればもったいないし、破らなければ人に見られてしまうはず。泣く泣くでも、やはり返すほうがいい」
と歌った、というわけだ(ただし『元良親王集』では歌の主は御息所になっていて、御息所のほうから手紙を返したという解釈もある)。
 御息所は、醍醐天皇に入内する予定だったが、天皇の父で、出家の身である宇多法皇が急に見初めて寵愛した(『俊頼髄脳』)。さぞ魅力的な女だったのだろう。色好みで名高い元良親王の歌のなかでも、彼女に送った歌は情熱度もピカイチ。
 御息所との不倫の関係が発覚したのち、元良親王の詠んだ歌は百人一首にも入っている。
“わびぬれば今はた同じ難波なる 身を尽くしても逢はんとぞ思ふ”がそれで、
「どうせ辛いなら、事が露見した今はもう同じこと。難波にある澪標(みおつくし)のように、我が身を尽くして破滅してもいいから、あなたに逢いたい」というわけだ。
 こんな歌を詠むほど盛り上がっていた渦中は、さぞかし人に見られたら困る手紙もたくさん交わしていたことだろう。それで「返して」ということになったのだろうが。
 これがメールだったら、返してもらうことすらできないし、コピペして他人に転送されたら一発だから、ラブレターを見せびらかす文化のあった平安時代とどっちがいいとは一概に言えない。
 ただ、「手紙を返して」ということばは、現代では通用しないし、言っても何の意味もない。そう考えると、面倒がなくていいのと寂しいのが半々なのである。