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【第38回】 ひすまし
私が古典にはまったのは中学時代。教師に勧められて読んだ鎌倉時代の『宇治拾遺物語』が、きっかけだ。そこには、好きな女を諦められないために、
「こうなったら、あの人の悪いところ、うとましいところを見て嫌いになろう」
と、女の糞尿を盗んで見ようとする男が出てくる。
もうここからして小学生的ウンコ的世界に片足をつっこみつつ、もう片足は思春期的エロスの世界へと踏み出そうとしていた当時の私にとって、わくわくパラダイスな予感に満ちているのだが。
今のストーカーよろしくゴミや郵便物を盗むならともかく、糞尿なんて盗めるものなの? という疑問が、現代人なら当然湧くだろう。
ここが昔の昔たるゆえんで、当時の人々は箱に排泄し、それを“ひすまし”と呼ばれる下女が洗い清めていたのである。
『餓鬼草紙』には町で野グソをしている女の絵が出てくるから、まぁ庶民ならそのへんに致すこともあっただろう。けれど、貴族、とりわけ人前では顔すら見せない女性はそうはいかない。“ひすまし”は貴族女性にとっては必要不可欠な存在で、『宇津保物語』『栄花物語』『源氏物語』といった平安文学には漏れなく登場している。
つまり、糞尿は必ず“ひすまし”によって、どこかに処理される。
「好きな女のうとましいところを見よう」と思いついた男の心に、するりと「女の糞尿を見よう」という発想がわき上がってくるゆえんである。
男は召使を呼んで、
「その人の“ひすまし”が箱を持って行くはずだ。奪い取って私に見せろ」
と命じる。
命じられた召使もいい迷惑だが、言われた通り、日ごろ、女の“ひすまし”のあとをつけて様子をうかがい、見事、逃げる“ひすまし”に追いついて、箱を奪い、主人である男に手渡した。
男が“悦(よろこび)て”物陰で見ると、箱は香染めの黄色い薄物に包まれていて、“かうばしき事、たぐひなし”。中を開けると、沈やら丁字やらの香料を濃く煎じたものに、薫物をたくさん練って入れてあるではないか。
この話の原話と思しき平安末期の『今昔物語集』の類話では、親指大の“黄黒ばみたる”物が長さ二三寸ばかり” ・・・
長さ約六、九センチほど ・・・ に三切れほど入っていたとあって、リアルさ満点。しかも男はそれを木の切れ端で刺してにおいを嗅ぎ、中の薄黄色の汁を“少し引き飲(すす)”り、“少し嘗め”というスカトロ趣味を発揮したところ、
“苦くして甘し”
と、これまた、あまりに生々しい感想が綴られているのだが。
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』の、いずれにしても、その排泄物そっくりの物体は実は香料で練った作り物と香料の汁で、芳しい香りを放っていたのである。
驚いた男は、
「いかにもおぞましくしてあったら、幻滅して、恋心も癒えると思ったのに。こんなに“心ある人”がいるものか」
と、ますます死ぬほど恋焦がれ、『今昔物語集』の類話では、そのまま焦がれ死にしてしまうのだ。
盗む男も男なら、そこまで予測して、作り物の糞尿を用意していた女も女、周到なのにもほどがあって、ちょっと怖い。もしやこの話が生まれた当時、京の都で、下着泥棒ならぬ糞尿泥棒事件が頻発していたかして、女は、男の執着心の深さに「ひょっとして私も」と危険を感じ、ダミーの糞尿セットを常備していたのだろうか。それにしたって、本物の糞尿の入った箱を始末する“ひすまし”もいたはずで、よくぞうまいこと、偽の糞尿を持った“ひすまし”のほうがつかまってくれたものである。
もしかして、男が香ばしさに感激した偽の糞尿は、ほんとは偽物ではなくて、正真正銘の糞尿だったのではないか。 「好きな人だと排泄物さえ愛おしい」 ってことだったのでは ・・・・・・ そう、あとになって、考えてもみた私である。
あるいは単にスカトロ趣味の男だった可能性も高い。
先の『餓鬼草紙』で女が野グソしているシーンは、「伺便(しべん)餓鬼」といって、人の糞を食う餓鬼が、糞を目当てに群がっているという図の一部である。伺便餓鬼は「前世において、貪慾(どんよく)で布施を行なわず、不浄の食物を沙門(しゃもん。僧)に与えなどした因縁で、餓鬼となったもので、つねに糞尿を求めて命を保つ」(小松茂美編集・解説『餓鬼草紙・地獄草紙・病草紙・九相詩絵巻』中央公論社)という、なんともおぞましい餓鬼だが、糞尿を食べる人間が実際にいたからこそ、こういう餓鬼も発明されたと考えると、この話もこうした人間の性癖を反映したものと見ることもできよう。
はたまた、物語の言う通り、周到な女の話だったのか ・・・・・・ 。
謎は深まるばかりだが、糞尿はトイレではなく、箱にして、“ひすまし”に洗い清めさせるという、当時の排泄スタイルならでは生まれた、愛と人の深淵に迫る奇譚ではあろう。
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