立ち読みコーナー  
  【松井簡治と『大日本国語辞典』編纂の動機】  

 祖父・松井簡治の編纂した『大日本国語辞典』に関して、昭和三年以降、出版元の冨山房の宣伝パンフレットや内容見本には、着手から完成に至るまでの、次のような年表が必ず付せられている。

『大日本國語辭典』の編纂着手より完成に至るまで
明治二十五年    この年より約六ヶ年間參考書籍の渉獵蒐集に費す
明治三十一年 四 月 この年より約五ヶ年間前記參考書の便覽索引作製に從事す
明治三十六年 七 月 編纂開始、その後第一巻發行に至るまで編纂と同時に校正に從事す
大正 三 年 十 月 略原稿全部出來
大正 四 年 十 月 第一卷發行
大正 五 年 十 月 第二卷發行
大正 六 年 十 月 第三卷發行
大正 八 年十二月 第四卷發行
大正 九 年 二 月 索引に着手
昭和 三 年 四 月 索引校正終了
昭和 三 年 九 月 索引發行
      ――前後通じて三十六年――

 祖父が周到に準備して辞書を作ったことはこれでよくわかる。だが、明治三十六年までを見ると、こんなにきっちりと区切ることができるのだろうかという疑問も起こる。明治二十五年から約六年間、参考書籍を渉猟収集したとあるが、その後も当然書籍収集は続けていたはずである。また、その六年の間収集以外のことをしなかったとは考えられない。参考書籍が何点か手に入った時点で、次の作業である索引の作製を始めたと思われる。要するに、先の年表はわかりやすく大体のところを示したもので、この十年余りの間、仕事は重なり合って行なわれたと考えるのが自然であろう。
 ところで、祖父はなぜ国語辞典を作ろうと思い立ったのだろうか。私は十七歳まで祖父と生活を共にしていたが、そのことについて話を聞いた覚えは全くない。活字になったものであれこれと探してみると、辞書編纂の動機に触れているものが、かろうじて一つ見つかった。『学苑』(昭和十年五月号)に載った、「辞書の沿革」と題するものの中で、

日本語の辞書も随分あるが、皆不完全で満足する様なものがない。何とかしていいものをつくりたいと考へついたのが、動機といへば動機であらう。

と述べているのがそれであるが、至極あっさりしている。大した動機ではないと言いたかったのかもしれないが、「日本語の辞書も随分あるが」という裏には、「外国語の辞書と比べると」ということがあるように思われる。
 祖父は、漢学塾を開いていた父によって、幼いころから漢文、国文を仕込まれている。しかし、政治家になりたいという希望があったらしいことが、「銚子商業銚子中学合同講演会」の講演を活字化したものによって知られる。

その当時私はどうしても政治家になりたかったので、それには是非英語とか独逸語を学ばなければならないと思ひましたが、銚子ではそれを教へて呉れるところなどありませんから、是非東京へ出て学ばねばならなかったのです。(『銚水会報』第二号、昭和十六年十月)

そこで、明治十九年、二十四歳で単身上京、私立の英語学校(明治会学館)で三年間学んでいる。恐らくこの間にウェブスターなどの英語辞典に接したのであろう。それによって日本語の辞書の遅れが痛感され、「皆不完全で満足する様なものがない」と言わせたものと思われる。いつ政治家になるのをあきらめたのかは明らかでないが、英語学校を卒業した後、明治二十二年九月からは、文科大学に新設された教育学科の特約生となって国語漢文を専攻している。だが、一年でこの制度がなくなったので、二十三年には国文学選科生としてさらに一年間学び、教員の免許を取得する。この間に、はじめての近代的な国語辞典と言われる『言海』(大槻文彦)が出始め、二十四年四月に完成している。確かにこの辞書はすぐれた点が多々あったが、古典からの用例は少なく、収録語数も四万にやや欠けるという規模のものだったから、外国の辞書に接していた祖父にしてみれば、とうてい満足できるものとはいえなかったと思われる。
 また、大学で国語漢文を学んでいる間に、国漢の書籍には役立つ索引がないことに大きな不便と不満を感じていた。このことは、後に、「国書の索引」(『國學院雑誌』明治三十一年一月)と題する論説で、

洋書を読む者は何人も知るなるべし。巻末には皆インデキス(Index)ありて、巻中の重なる文字熟語を掲げ、又コンコルダンス(Concordance)ありて、引用の書巻など詳に頁数を記し、読者の検閲の便に供へたり。然るに和漢の書には斯かる便益少ければ、一語一句の捜索にも幾多の手数と時間とを浪費するなり。予れは嘗て此の事を或る老学者に語りしに、其の人は曰はく、余り捷径に馳せては、学問のありがたみを失ふべしと。(略)何れの学科も日進の世に、国漢文学の独り遅々たるもの故なきにあらざるなり。

と述べ、索引の必要性を説くとともに、頭の古い学者の態度を嘆いているのを見ても明らかである。こういう考えが、初めに掲げた年表の明治三十一年に、「便覧索引の作製」とあることにつながっている。そして、索引を作ってゆく間に、これを使って辞書作りをすればよいものができるのではないかという、手ごたえを感じるようになったとも想像される。

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