立ち読みコーナー  
    『日本国語大辞典』(初版)の内側 『大日本国語辞典』との出会い  

 祖父・松井簡治は大正四年から八年にかけて『大日本国語辞典』(全四巻、冨山房刊)を世に出した。古語、現代語を含む約二十万項目を収め、準備段階から約三十年の月日をかけた仕事である。南向きの八畳の座敷を書斎とし、大きな和机に向かって、書見や書き物に没頭していた祖父の姿は今でも目に浮かんでくる。しかし、どういう仕事をしているのかは全く知らなかった。だれでも年をとれば自然にそういう静かな生活を送るようになるものだと思い込んでいたらしい。従って、少年時代の私は、祖父の国語辞典についてまるきり無関心であった。
 中学二年のとき、国語の教科書に「学者の苦心」という題で、祖父の辞書に寄せた芳賀矢一氏の序文が載せられていて、「この辞書は松井のおじいさんが作ったものだよ」と先生が皆に紹介した。それにどう反応したらよいかとまどった覚えがあるが、祖父は教科書に載るようなえらい仕事をしたのだとその時はじめて知った。
 昭和十九年に、名古屋の第八高等学校に入学した。文科を希望していたが、父は強く理科を勧めた。ちょうど太平洋戦争が激化して行く時期であったから、徴兵猶予という特典のある理科に進ませて時をかせぎ、情勢の好転を待つ方がよいという親心であったのだろう。父の意見に従い理科に進んだが、一年余りで敗戦の日を迎え、文科への転向を考えることになる。だが、徴兵の心配がなくなったからすぐ進路を変えるというのは何か無節操な気がしてためらわれた。転科を学校へ申し出るに際してはもっともらしい理由づけがほしい。その時思い浮かんだのが祖父の辞書である。その時の教務部長は厳しいので有名な英語の先生であった。さぞ油をしぼられるだろうと覚悟しながら恐る恐る申し出たところ、「おじいさんの跡を継ぐわけだね。私もあの辞書には随分お世話になった。まあ、しっかりやりなさい」と、あっさり許可が出た。祖父の辞書の力の大きさをはじめて思い知らされた瞬間だった。しかし、何とも心残りなのは、転科が許可される約二か月前に、孫の進む道の変更を知らないまま、祖父が他界してしまったことである。あとで聞けば、祖父は疎開先で同居していた伯母に、「孫たちで国文をやるものはだれもいないんだね」とさびしそうにもらしたことがあったという。
 大学進学の祭は、迷うことなく国文学科を選んだ。なぜかそれが一番自然なような気がしたからである。久しぶりに東京で、両親や兄弟と一つ屋根の下の生活が始まったが、戦後の復興未だしで、物資の乏しい時代であった。酒好きの父は勤め帰りにどこかで飲んでくることが多かったが、カストリ焼酎のようなあやしい酒だったらしく、これが胃をこわす一因となったように思われる。外で飲んできても、家でまた少し飲むのが常であったが、母に量を制限されていたので、親子で酒をくみ交わすということはかなわず、またそういう気持の余裕も持てない食糧事情であった。祖父と父が飲食をともにしながらよもやま話をする光景は、私の中学時代に毎晩くり返されるひとこまであったが、恐らく父は、いずれ近いうちに息子を相手に飲める時がくると楽しみにしていたのではなかろうか。
 大学を卒業してすぐ、私立の武蔵高等学校の国語教師として勤めることとなったが、その三年目、戦後の混乱がようやく落ちついてきた昭和二十八年の暮れに、父は胃潰瘍の術後の経過が思わしくなく急逝してしまった。まだ五十九歳でいよいよこれからという時であった。父は祖父の残して行った増補改訂のためのカードを引き継いで、朝四時ごろから勤め前の二、三時間を使い、それを整理し追加する作業を行なっていた。そのことは知っていたが、あまりに突然の死であったため、カードの現状や追加作業の内容などを聞く機会は永久に失われてしまった。

このページを閉じます

© Shogakukan Inc. All rights reserved. No Repro duction or republication without written permission.
掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。