立ち読みコーナー  
       【用例資料にまつわる話 古書収集の穴にはまる】  

 用例を採る資料として明治以後の文学作品をとり上げることにしたとき、まず対象にしたのは著名な作家の、広く読まれていると見られる著作だった。第一段階としてはやむを得ないことだったが、それらの中には、俗語・隠語・流行語の類はあまり見られない。こういう語の用例を拾うには、もう少し対象の範囲を広げ、大衆的・通俗的な読み物にも目を向けなければならない。そこで、どういう資料がいいかと古書展に出向くたびに注意するようになった。『夢声半代記』(徳川夢声、昭和四年)、『彼女とゴミ箱』(一瀬直行、昭和六年)、『浅草』(サトウハチロー、昭和六年)、『舗道雑記帖』(高田保、昭和八年)などは、この観点から手に入れて語を拾った資料である。その成果は、大体予想した通りで、第二版の用例として生かすことができたものが多い。佐々木邦の著作も、前述の「あめしょん」「あんちょこ」の例(126ページ参照)で役立つことが明らかだったので、目につけば手に入れるように心がけた。その中の一冊に『明るい人生』というのがある。これは『現代ユウモア小説全集』(全18巻、昭和一〇〜一一年、アトリヱ社刊)があり、その第一巻が佐々木邦なので、この全集も揃えたくなった。さらに、戦後にも『ユーモア小説全集』(全24巻、昭和二七〜二八年、東成社刊)があり、その第四巻が佐々木邦で、この全集にも手を出し始めた。この三種のユーモア全集は、まだ十分に生かしきれてはいないが、いくらかは第二版の用例に採り入れることができた。これらの全集に作品の入っている著作者の中で、前記の佐々木邦のほか、生方敏郎・岡本一平・サトウハチロー・獅子文六、徳川夢声・古川緑波・牧逸馬(谷譲次)などの著作にも興味を持つようになって、いよいよ古本病が昂じて来た。
 辞書には一般語以外のさまざまな分野の用語も出てくるから、用例の付いていない語にぶつかるたびに、その分野の資料を古書展であさるということもする。『致知啓蒙』(明治7年)『楽典初歩』(明治21年)、『新式ベースボール術』(明治31年)、『日本昆虫学』(明治31年)、『最近野球術』(明治38年)、『地震学講話』(明治40年)、『洋楽手引』(明治43年)、『論理学』(大正5年)、『テニス』(大正12年)、『陸上競技法』(大正12年)などがそれで、全体にわたって語を拾ったものもあるが、大方は必要に応じて参照し、用例を見つけて利用した。
 こうしてあれこれと手もとに集まってくると、はじめのうちは手に入れたものは記憶しているが、時がたち本が増えるに連れて次第にあやしくなってくる。そのうち、前に買ったことを忘れてダブってしまうことも生じ、逆に買ったと思っていたのにいくら探しても見つからないという事態も起こる。これを防ぐには、手に入れたものを専用の手帳にひかえて、買うときに確かめるほかなさそうである。はじめは著作者別に記したものと叢書別にしたものと二冊を持ち歩いて、それ以外は記憶に頼っていたが、さまざまな分野のものが増えてくると、それだけではすまなくなって刊行年別に記すものをもう一冊つくることになった。手帳にひかえることにしたのはよかったが、そのために、叢書で揃っていないものは揃えたくなる、作者別の手帳に載っていない著作を見つけるとほしくなる。辞書の資料として買っていたはずなのに、揃えたり増やしたりするために買うというマニアの穴にだんだんはまっていく。しかし、「内容が同じならわざわざ豪華本・限定本など値の張るものには手を出さない。帯がない、函がない、表紙が汚れている、背がないなどの欠陥があっても中身が読めればよい」と割り切っている点で、かろうじて辞書のためという一線を守って踏みとどまっているといえようか。だが、それでも本を収める場所には悩まされる。
 初版が完結して十年ほどたったころ、思い切って家を改築し、半地下の書庫を造ることにした。書庫は十二畳分の広さで、スライドするスチールの書棚を入れ、二面の壁の前にも天井までの書棚を設置した。さらにこの際、雑誌類の一部、外国小説、美術全集の類を処分することで冊数を減らし、書斎及び書庫以外の部屋には本を置かないで済むように考えた。しかし、物事はなかなか机上の計算通りにはいかないものである。一年余りは、それで何とかしのぎ切れたが、ついに二階の一部屋に書棚を置かなければならなくなった。書庫の通路も半分のスペースは本を置くことになる。書斎にもキャスター付きの本箱を入れる。はては廊下や書庫への階段など、わずかな場所をも利用せざるを得なくなった。次はどうしたらよいか、頭の痛い問題である。

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