立ち読みコーナー  
  【桃】  

 自宅の庭のいちばん奥で桃の花がほころびはじめた。もう二十年ほども前に、知人から棒のような苗木を貰い、団地の庭に植えた。庭といってもじつは庭に隣接した共用スペースで、育ちの早い桃の木はたちまち大木になった。
 花盛りを何年も楽しんだが、つい数年前、場所柄あまりの繁茂に持て余して切り倒したのである。その時、植物の必死の手段なのか、脇から新芽が出てきて、それを現在の庭に移したのだった。それがまたまた、そのうち持て余しそうな勢いで育ち、今年も花期を迎えている。
 桃の木の生長が早いことは、子どものころから私の頭にしっかり植えつけられている。小中学生だった戦中戦後、自宅前の広い原っぱを周辺の住人が菜園にしていたが、私の母が自分の畑の柵の杭に使った棒切れが、たまたま桃の木だったのである。棒切れはその場に根づいて、瞬く間に生長した。
 その桃の花の姿を、その後いくたび思い出してきたことだろう。思い浮かぶのはいつも同じ情景で、花盛りの桃の木とすぐ近くに立つ電柱にゴム縄を結び、一人でゴム跳び遊びをしている自分の姿である。
 そのとき私は、グレーに赤をあしらった模様編みのセーターを着ていた。そのセーターを私は気に入っていて、何となく心楽しく、その時間をちょっと意識しながら過ごしていた。桃の花色がじつに濃く、そして、じつにたくさん咲いていた。
 いままた、その遠い光景を思い浮かべている。広い菜園の前方には西武線の走る線路端と、さらにその向こうに小高くなった雑木林が見渡せた。もうとうに、消えてしまったその景色を・・・・・。


桃
このページを閉じます

© Shogakukan Inc. All rights reserved. No Repro duction or republication without written permission.
掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。