立ち読みコーナー  
  【本文(序章)】  


上田万年の広がり
 近代日本の「国語」をリードした上田万年は、明治の文化人の例にもれず文学青年でもあった。
少年時代、同年の斎藤緑雨と回覧雑誌をつくって文学に夢を馳せ、大学に入っては、グリム童話翻訳の嚆矢とも言うべき『おほかみ』(狼と七匹の子山羊)を出版している。留学を前にしてのことだったが、のちには恩師外山正一の影響もあって、『新体詩抄』の続編『新体詩歌集』(明治二八年〈1895〉刊)にも参加した。そして、外山の漢字廃止、音韻文字採用論は、後日上田によって国策として力強く展開されることになる。
 明治時代の指導的知識人は、数が限られていたこともあり、その出会いや交流によって主義主張が受け継がれ、あるいは広がっていったふしが強い。上田万年は二三歳でドイツに留学するが、当地の数少ない日本人の一人、物理学者の田中館愛橘と親交を結ぶ。一〇歳近く年上の田中館は、当時すでにローマ字研究とその採用に情熱を傾け、のちのち昭和に至るまでローマ字運動の中心的存在となる人物である。遠い異国の地で交流を深めたことで、上田も田中館の主張するローマ字論への理解を深めたことだろう。
 また、東京に集中した明治知識人が、その出自門閥によってよしみを結ぶということもごく自然なことだった。江戸大久保の尾張藩下屋敷に生まれた上田万年は特に江戸っ子気質を愛し、旧幕臣の出や東京出身者と気脈の通じるところがあった。そうしたことから、門人中の秘蔵っ子は徳川家旗本の家に生まれた新村出であり、晩年の門下生総代は神田で生まれた時枝誠記であったと語り継がれている。新村も時枝もそれに応えて終生万年を尊敬し、折あるごとに敬愛の情をこめた回想をしたためている。
 これらのことは、最近のものでは、上田の次女、円地文子の娘冨家素子さんの文章「上田万年覚書」(平成一〇年・『新潮』五月号)や、晩年の門弟伊藤正雄氏の『忘れ得ぬ国文学者たち』(平成一三年復刊・右文書院)などで知ることができる。明治政府の中枢にもあった上田の人脈は、その分野の広がりといい層の厚さといい簡単には言い尽くせないのだが、いま「国語辞典」関連に限って、上田の周囲をたどっていくことにする。
近代国語辞典を導いた二つの辞書論
 上田万年は、イギリスのNED(のちの『オックスフォード英語辞典』OED)に刺激され、二三歳の若さで「日本大辞書編纂に就きて」という講演を行っている。三か月後の明治二二年〈1889〉五月には、日本でも、近代国語辞典の祖といわれる大槻文彦の『言海』第一冊が世に出るのだが、上田は早くもこの講演で、刊行前の「言海とかいふ辞書編纂」についても言及している。しかし、翌年から四年間ドイツへ留学することになる上田は、『言海』全四冊の完成は遠くヨーロッパから見ることになる。
 留学から帰国し、博言学担当教授に就任したばかりの上田万年の講演に強く引かれて、帝国大学(のち東京帝大)博言学科に入学したのが新村出であった。新村は、京都帝大の教授となり、大成したのちの昭和八年〈1933〉、五八歳で「日本辞書の現実と理想」という講演を行う。四十余年を隔てた上田・新村両人の辞書編纂論は、近代の大型国語辞書編纂のための指針となったものである。
新村出の辞書とのかかわり
新村の講演は、二年後に『辞苑』(全一冊・昭和一〇年)刊行が予定されていた上でのものだったが、それは新村自らが理想とした大型の辞書ではなかった。しかも、『辞苑』発刊前には百科事典で波に乗っていた平凡社から、『大辞典』(全二六巻・昭和九〜一一年)の刊行が始まり、新村は大いにあせり驚嘆もした。しかし、その内容が伝わるにつれて、『大辞典』も自分が描いた理想の辞書からは程遠いことを知る。時期を同じくして刊行されたこの二つの辞書は、百科項目を取り入れた点などでよく似ており、敗戦をはさんだ二〇年後には、それぞれ『広辞苑』と、縮刷『大辞典』全一三巻という新しい形で再び並び立つ因縁にあった。
 なお、『辞苑』より先に、大槻文彦の『大言海』(全四巻・昭和七〜一〇年)の刊行が始まっていたが、大槻は昭和三年にすでに没しており、取り巻く人々の尽力で出版にまで漕ぎ着けたのだった。その中には新村出もおり、途中からだが、京都の門弟をも動員して大いに貢献した。例の辞書編纂論もそのさなかに行われたものであった。
ともあれ、昭和一〇年前後に歴史に残る辞書が三つも並んで出現したのは、日本が無謀な戦時体制に突入する直前に、急いで咲ききそった花のように思えてならない。戦争の傷は深く、再び新たな企画の大型辞書が刊行されるのはほぼ半世紀後のことになる。
上田―橋本―時枝
 辞書史の系譜としては、上田万年から新村出に連なるが、東大教授の席は新村より六つ下の橋本進吉が受け継いだ。橋本は、上田教授の下で明治・大正・昭和にかけて二〇年近く助手をつとめたのちの就任だったので、わずか一四年で時枝誠記にバトンタッチした。それぞれに個性的な三代だったが、橋本進吉だけは辞書を残していない。商業主義の渦に巻き込まれるのを嫌って研究に専念したと見ることもできるが、新村出が初めて辞書を出した年齢に近い六一歳で亡くなってしまったという事情もあってのことだろう。
時枝誠記には自らの言語過程説にのっとった辞書論もあり、ユニークな現代語辞書『例解国語辞典』(全一冊・昭和三一年)も残している。そして『大言海』以来、約四〇年ぶりに企画された大型辞書『日本国語大辞典』には編集顧問として参画した。新村出も同辞典の顧問に加わったが、そのとき最年長の八八歳、以下金田一京助、諸橋轍次と続き、時枝は最年少の六四歳だった。
上田万年と松井簡治と
 上田万年としばしば並んで引かれる人に『大日本国語辞典』(全四巻・大正四〜八年)の共著者松井簡治がある。松井の著作とも言える辞書だが、上田万年の力があってはじめて出版できた一面もあって共著となっている。
上田より五歳上の松井は、上田が留学中の明治二五年〈1892〉に学習院教授となっており、今日でこそ単独の著作として刊行できたろうにと思うところだが、当時の学者の力関係や出版事情はそれを許さなかった。そのいきさつから、二人の関係はごく表面的でよそよそしいものだったと見られることも多いようだ。そうした印象は、国語国文学界のもう一方の雄であった芳賀矢一と松井簡治との格別親密な交流と比較されるところから強まった面もあろう。が、実際には、上田・松井の親しい交わりを物語る文章も残されている。「上田万年博士追悼号」に載った松井の一文である。
「上田さんには、逸話というものがない。芳賀さんが、非常に逸話に富んだ人であつたのと正反対である。」
 松井が、この両者と三上参次や高津鍬三郎など数人を招いて郷里の銚子に遊んだとき、芳賀は「ウヰスキーの壜を幾本も空に」した。帰りの車中では「東京に着くまで芳賀さんの世話ばかりさせられた」と、のちに上田から聞かされたと松井が回想している。いかにも豪放磊落な芳賀と律儀な上田とを髣髴させる話である。そのとき記念の書画帖が用意され、皆でいろいろ書きちらしたという。
「初めは、帖があまり立派なので誰も筆を揮はなかつたが、私がまづ『ヘマムショ入道』の文字絵を書いたので、それから皆も揮ひ始めた。」
という松井のコメントがあり、松井の絵に上田が「おいらん」の文字絵を加えた一枚が添えられている。両所は世間の見方とは違ってごく普通に親しかったようである。
上田万年と芳賀矢一と
 先の上田博士追懐号には二四人が寄稿している。同年生まれながらすでに一〇年前に没した芳賀矢一を引き合いに出す人が多く、二人は厳父と慈母という関係によくたとえられたらしい。「上田先生の秋霜烈日と芳賀先生の春風駘蕩」とも語られている。
書肆冨山房にあって両者に親しく接した長谷川福平は、「『芳賀上田』とは、恰も関東平野に於ける『富士筑波』の語のように、国語国文界に於ける双璧として併称された」と述べている。そして、冨山房から出された『ローマ字びき国語辞典』が、上田博士の主義であった日本式ではなくヘボン式を用いたのは冨山房のせいだろうと田中館愛橘博士に責められたとき、あれは広く行われている方を採られたのですと長谷川は答えた。芳賀博士は固く日本式を採って譲らなかったが、「広く行はせるのが何より急務だ」として妥協したのは上田博士の真面目の表れだった、とも語っている。どうやら、おおらかさが両者逆転した場合もあったようである。
松井簡治と芳賀矢一の末裔
 時は流れ、世代も交代して、上田万年・松井簡治共著の『大日本国語辞典』を継承して、『日本国語大辞典』(全二〇巻・昭和四七〜五一年)が編纂された。そこで中心的な役割を果たしたのは松井簡治の孫栄一氏と芳賀矢一の末子定氏だった。二人はそれぞれに祖父や父親の性格を受け継いでおられたと思うが、ともに緻密な仕事ぶりであった。
松井栄一氏は、次々に出現する長丁場の作業を淡々と着実にこなされ、芳賀定氏は最長老として『日本国語大辞典』編集部の者を導いてくれた。時にあせる私を、「まあ、待て。」と再三セーブして大ポカに至るのを救い、また時には豪放に、「それ、行け。」と励ましてくれる場面も数多くあった。
 なによりも、両氏が『大日本国語辞典』にゆかりの深い人物であったことが、『日本国語大辞典』編纂の協力者の輪を広げてくれた。世代を超えて、上田万年の人脈に連なる人々が積極的に参画され、あるいは支援を惜しまれなかった。本書の巻頭に、あえて序章を設け、上田万年をめぐる学者たちを取り上げ、その系譜と交流の一端とを紹介した所以である。

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