立ち読みコーナー  
  【第二部のはじめに】  

 近代日本の国語問題は、公には漢字をはじめとする文字の問題と仮名遣いの問題とが表立って取り沙汰されて、文章のことは一般の成り行きにまかされてきたという趣があります。明治三十五年の国語調査委員会以来、文字・仮名遣い・文章・標準語の改革や創成が目標とされながらも、国の機関で具体的に論じられ施策が講じられてきたのは文字と仮名遣いが中心でありました。
 文章と標準語については、文学者を中心とする民間の努力と学校教育の実践の中で培われてきました。世間一般に、普通に用いられるべき文章の形成が目標とされ、いわゆる普通文や言文一致体を軸にしてあれこれ試行錯誤はあったものの、着実に口語文が育っていきました。並行して教育の場でもいろいろな試みがなされ、その中で標準語も形成されていくのでした。
 模索された文章は、文語系にしろ口語系にしろ、漢字と仮名を交えて書く方式がごく自然に行われたのでしたが、その交ぜ書きの様式、スタイルはさまざまでした。用字法や様式の違いによって当然その呼称もさまざまでした。同じ漢字仮名併用の文章がどのように扱われ、どのように呼ばれてきたか、主としてその呼称すなわち用語の変遷に着目して近代日本の文章史を振り返ろうとするものです。今日言うところの漢字仮名交り文≠ヨの道のりをたどることになりますが、自ずからこの表記法の特徴や利点について明らかにしていくことにもなります。
 最初に、近代国語施策の歴史の中で大きな節目を三つとらえて概観しておこうと思います。第一の節目は、明治三十五年の国語調査委員会の発足であります。そこで掲げられた基本方針の第二項に文章のことがありました。

  二、文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト

基本方針に付随して「普通教育ニ於ケル目下ノ急ニ応センカタメ」として六項が掲げられますが、呼応する事項は、

  二、現行普通文体ノ整理ニ就キテ

でありました。
 つまり、この節目にあっては文章については言文一致体が目標とされ、普通文体の整理が現実の問題とされていたわけです。
 このように表立って国語施策が議論されるまでは、学校教育の実践の中で待ったなしの試行錯誤が繰り返されてきました。小学校ではまず仮名を学び仮名書きの文章に進み、次いで徐々に漢字を交えた文章へと進むコースが定着しました。その過程では当然のように漢字制限や仮名遣い改定が問題となり、文部省は何度となく改革案を出しては引っこめるということを繰り返してきました。ところが文章についてはそのような表立っての動きはありませんでしたが、教育令・小学校令やそれに伴う教科書などの中で微妙な変化を重ねてきていました。いまその移り変わりを主な用語でたどれば、

  仮名交り文
  漢字交り文
  普通文

ということになります。これらは文語・口語に共通するものでしたが、教材には談話や会話文も取り上げられ、一般に普及しはじめた言文一致体も視野に入ってきていたわけです。
 明治三十五年の節目に掲げられた音韻文字採用という大基本方針は、「かなのくわい」や「羅馬字会」といった組織の運動をいっそう活発にさせるものでしたが、現実的には、仮名だけの文章、ローマ字による文章が一般に行われることはありませんでした。文語文にしろ口語文にしろ、漢字仮名併用の文章がずっと続いていきます。そして、いわゆる普通文は言文一致体に吸収されていって、口語文が新聞雑誌などでも主流となるにつれ、言文一致体という用語も取り立てて言われることもなくなっていきました。そして、昭和に入るころから、漢字に対する考え方の違いが再びクローズアップされることとなりました。日清・日露の戦争に勝った勢いに乗って台湾・韓国そして中国大陸へと進出する中で、反漢字の気運も盛り上がり、加えて外地での日本語教育問題から漢字を制限しようという動きと、伝統を重んじる立場や極端な国粋主義の立場からそれに抵抗しようという動きが対立するのでした。そんな中で、漢字仮名併用の文章の呼称としては、
 
  漢字仮名交り文
  仮名漢字交り文

ということになります。これらは文語・口語に共通するものでしたが、教材には談話や会話文も取り上げられ、一般に普及しはじめた言文一致体も視野に入ってきていたわけです。
 明治三十五年の節目に掲げられた音韻文字採用という大基本方針は、「かなのくわい」や「羅馬字会」といった組織の運動をいっそう活発にさせるものでしたが、現実的には、仮名だけの文章、ローマ字による文章が一般に行われることはありませんでした。文語文にしろ口語文にしろ、漢字仮名併用の文章がずっと続いていきます。そして、いわゆる普通文は言文一致体に吸収されていって、口語文が新聞雑誌などでも主流となるにつれ、言文一致体という用語も取り立てて言われることもなくなっていきました。そして、昭和に入るころから、漢字に対する考え方の違いが再びクローズアップされることとなりました。日清・日露の戦争に勝った勢いに乗って台湾・韓国そして中国大陸へと進出する中で、反漢字の気運も盛り上がり、加えて外地での日本語教育問題から漢字を制限しようという動きと、伝統を重んじる立場や極端な国粋主義の立場からそれに抵抗しようという動きが対立するのでした。そんな中で、漢字仮名併用の文章の呼称としては、
 
 言うまでもなく、わが国の表記法として広く行われている漢字仮名まじり文は、我が国の社会や文化にとって有効適切なものであり、今後ともその機能の充実を図っていく必要がある。

 という文言が挿入され、ここにおいて名実ともに、

 漢字仮名交り文

が、確固不動のものとなったと見てよいでしょう。ここまでの道のりを振り返るとき、激しくゆれ動いた近代日本語問題の歴史の幕引き役を果たしたのはこの漢字仮名交り文≠ナはなかったかという印象を強くするものであります。


               第二部漢字仮名交り文≠ヨの道のり

第二部のはじめに

う用語が表立って見られるようになりました。
 そこで第二の大きな節目を迎えることになります。昭和二十年の敗戦であります。国語改革論は、明治のそれを再現するような活発なものとなりました。フランス語採用論まで飛び出し、カナ文字論、ローマ字論も盛んになり、アメリカ教育使節団の勧告もありローマ字論は中でも勢いを得ました。そんな中にあっても文章の表記法の骨格は変更されることはなく、漢字が制限され、仮名遣いが改められても、それによって書かれる文章は、漢字仮名併用文でした。それは暗黙の前提でしたが、その用語は、徐々に

  漢字仮名交り文

に収斂していきました。
 この漢字仮名交り文≠ェ暗黙の前提にとどまることを不服とし、さらには漢字制限の先行きに不安を抱く立場から声を大にして発言した人がありました。国語審議会の委員となった医学界の泰斗吉田富三でした。審議会に出されたいわゆる吉田提案の第一項は、「国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。」というものでした。これはとりもなおさず明治三十五年の国語調査委員会が掲げた基本方針の第一項「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトヽシ」の撤回を改めて求めるものでした。これを第三の大きな節目と見るわけですが、吉田提案の漢字仮名交り文≠ヘ正規に決議されたり表立って公認されたりはしませんでした。しかし、次期の国語審議会に対する文部大臣の挨拶の中で、「当然のことながら国語の表記は漢字かなまじり文によることを前提とし…」という形で生かされることになります。昭和四十一年のことでした。この諮問にこたえて審議が重ねられて、極端な漢字制限や規制がゆるめられていくことになります。そして、昭和五十八年の「常用漢字表答申」の前文に

 言うまでもなく、わが国の表記法として広く行われている漢字仮名まじり文は、我が国の社会や文化にとって有効適切なものであり、今後ともその機能の充実を図っていく必要がある。

 という文言が挿入され、ここにおいて名実ともに、

 漢字仮名交り文

が、確固不動のものとなったと見てよいでしょう。ここまでの道のりを振り返るとき、激しくゆれ動いた近代日本語問題の歴史の幕引き役を果たしたのはこの漢字仮名交り文≠ナはなかったかという印象を強くするものであります。


               第二部漢字仮名交り文≠ヨの道のり

第二部のはじめに

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