立ち読みコーナー  
  【曇天の午後四時からの脱出】  

 曇天の午後四時が怖ろしい。このどんよりして眠いような、中途半端な悲しい時間を、みんなは一体どうやって過ごしているのだろう。私がどんなにそれを怖れても、曇天の午後四時を完全に避けることはできない。晴れの日が無限に続くことはないし、一日に一回は必ず午後四時になるからだ。生きている限り曇天の午後四時は巡ってきて、私は何度でもそれに捕まってしまう。何もかも、どんよりしてしまう。
 曇天の午後四時、こわくないですか、と何人かのひとに訊いてみる。え、こわいんですか? 天気がこわいんですか? と訊き返される。毎日晴ればかりだったらつまらないじゃないですか、と云うひともいる。どうやら誰もが曇天の午後四時を怖れているわけではないらしい。不思議だ。
 曇天の午後四時を、私は会社の自分の席で迎えることが多い。どよよんとした気配を感じて、びくっとする。目の前の仕事に没頭してなんとかやり過ごそうとするのだが、つい窓の外を見てしまう。「ミロ化粧品」「河童寿司」「ランドリーたんぽぽ」「喫茶パルコ」「チエ美容室」「カラオケ・トマトハウス」「キャッツ愛」、剥げた看板の立ち並ぶ、さみしい灰色の町並み。ああ、間違いない。曇天の午後四時だ。
 私はみじめに混乱しながら、かすかな抵抗を試みる。今、この時間を耐えて生きているのは僕だけじゃない、と唱えてみる。だが、周りを見ると、誰もがどよよんとした顔になっている。曇天の午後四時に支配されているのだ。あわてて自分の顔を撫でてみる。ねばねばしている。もうだめだと思って、私は八階の奥山有紀子を見に行くことにする。「ほむらさん、どちらへ」と隣席の女性社員が声をかけてくる。「どれくらいで戻られますか。私もちょっと打ち合わせにゆきたいんですけど」と迷惑そうだ。
  「う、あ、あの、めがみ・・・・・」と、もごもご呟きながら私はエレベータ・ホールの方に逃げてゆく。めがみ、とは女神のことだ。
 ディスプレイに向かっている奥山有紀子に、後ろから声をかける。
 「窓の外を見て」
 奥山有紀子は窓の外を見る。
 「見えるだろう。あれが曇天の午後四時だよ。正確には午後四時五分、こわいんだ」
 奥山有紀子はゆっくりと振り向いて私を見た。その目が面白そうに輝いている。
 「ほむらさん、なにどしですか」
 私は自分の干支を答える。
 「わたしとおんなじですね」
 私は、くるっと振り向いて、ふらふらとエレベータの方へ歩き出す。両眼から涙がたらたら流れている。おんなじですね。おんなじですね。おんなじですね。そのひと言がたまらなく優しい言葉に思われて、心のなかで何度も繰り返す。おんなじですね。おんなじです。私は、奥山有紀子の次の給料に100万円振り込もうと思う。
 だが、それは犯罪である。勝手にひとの給料を100万円にするのは犯罪だ。では、私の分の給料を振り込むのはどうだろう。3万円だけ残して残りを全部奥山有紀子に振り込む。それも犯罪だろうか。それとも軽犯罪だろうか。法廷で質問されるところを想像する。
 「被告穂村弘は、経理課長の職権を利用して、同社社員であるシステムエンジニア奥山有紀子の給料を、突然100万円にしたことを認めますか」
 「みとめます」
 「何故そんなことをしたのですか」
 「曇天の午後四時がこわいからです」
 「・・・・・どういうことですか」
 「どよよんが来て、顔がねばねばになって、全てを支配されそうになって、もうだめだとエレベータで八階に女神を見に行ったら、女神に干支を訊かれて、私は答えて、私は昭和三十七年生まれで、つまり、ふたりの干支は正確におんなじだったのです」
 「・・・・・」
 「おんなじだったのです」
 「・・・・・」
 「と、とら」
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