立ち読みコーナー  
  【菓子パン地獄】  

 目が覚めると、顔の横に食べかけの菓子パンが落ちている。しまった、と思う。またやってしまった。食べかけの菓子パンは完全につぶれている。その上で、一晩中、私が寝返りを打ったのだろう。ベッドの上は粉だらけである。起きあがろうとして、思わずうめき声をもらす。ちくちくするのだ。パンの粉たちが、トレーナーやシャツやパンツの隙間に入り込んで、私を「ちくちく」にしているのである。
 ベッドでパンを食べた覚えはない。少なくとも、はっきりした記憶はない。だが、夜中にトイレに行ったときがあやしい。トイレからの帰り道、おや、こんなところにこんなものが、と午前三時の寝ぼけた私はうれしく菓子パンを寝床に持ち込んだのだろう。
 「こんなところ」というのは、廊下の下駄箱の上である。なぜ廊下の下駄箱の上に菓子パンがあるのかというと、母が置いたのである。我が家の下駄箱の上には、常に九本入りの棒パン(チョコチップ入り)の袋が三つ置かれている。引きこもりに近いパラサイトシングルである私への「お供え」なのだ。私は基本的にこれを食べて生きている。来客や宅急便の配達人などは、下駄箱の上の菓子パンの山を見て怪訝そうな顔をするが、何かただならぬオーラを感じるのか、疑問を口に出す者はいない
 私の菓子パンの食べ方はうまい。棒状のパンのはしっこを軽くくわえて、反対のはしっこに左のてのひらを当てる。そのまま手品師が剣を飲むように、くくーっと口のなかに押し込むのである。くくーっ、くくーっ、くくーっ。素人が真似をするのは危険である。これは同じ菓子パンをこつこつと何年も食べ続けたものだけが身につけられる技なのだ。
 だが、さすがの私も、真夜中の寝ぼけているときはだいぶ勝手が違うらしい。そもそも最後まで食べきるという意識がないらしく、目覚めたとき、寝床の中に菓子パンの「しっぽ」だけが、三つ残っていたりする。朝の光の中に、「しっぽ」たちが、ころろんと転がり出てくるところを想像して欲しい。実に暗い気持ちになる。
 「ほむらさんは、どうして結婚しないのですか」と訊かれることがある。答えの替わりに、この「しっぽ」たちの写真を撮って、見せてあげたい。奥さんになるひとが、毎朝目覚めて、ベッドの中に「しっぽ」を発見したらどう思うだろう。嫌なんじゃないだろうか。それに隣で寝ている人間が、眠りながら、くくーっと菓子パンを飲んだら、妖怪みたいだと思う。
 私の考えでは、夜中に無意識状態で菓子パンを食べても一つもいいことはない。夜の食事はカロリーオーバーになるし、虫歯になるし、体は「ちくちく」になるし、結婚できないし、何より人間としての尊厳が危ぶまれるのである。
 大雑把な手元の計算によれば、私はこの「お供え」の菓子パンを通算で二千三百本以上は食べたと思われる。二千三百本、落合博満の生涯安打数に匹敵する数である。だが、私は、このパンがどこで売られているのか、未だに知らないのである。
  
  甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう

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