第 3回 「どじょう」は江戸のファストフード

一国の総理大臣が自らを「どじょう(泥鰌)」になぞらえ、泥臭さでがんばっているという。「どじょう」は滋養強壮によいとされ夏の季語になっているが、そろそろ鍋が恋しい季節。今回は「どじょう汁」の話である。
さて江戸時代、「どじょう」は、ほかに「どぢゃう」「どじゃう」「どぜう」「どでう」とも書いて一定しない。四文字では縁起がわるいからと三文字で「どぜう」と書いたことや、「どぜう鍋」の元祖という老舗もあるが、「どぜう」も「どじょう汁」ももっと古くからあった。
江戸の町には、どんぶり飯に泥鰌の入った汁をかけた「どじょう汁」を出す店があり、一杯十六文(240円くらい)で食べさせた。今でいう牛丼屋というところだろうか。「つゆだく」の「どじょう汁」を江戸っ子はサラサラッとかきこんだ。
図版は、寛政3年(1791)に刊行された芝全交(しばぜんこう)の黄表紙(きびょうし)『京鹿子娘泥鰌汁(きょうがのこむすめどじょうじる)』の「どじょう汁」の店。この書名は「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」のダジャレで、娘と泥鰌を取り合わせたのは、なまぐさ坊主たちが泥鰌のことを、ゆでるときのはねるさまを踊りの芸に見立てて「踊り子(芸者)」と呼んだからである。
今、若い女性たちに泥鰌でも食べに行こうと言うと、「ちょっと…」と敬遠されることがある。泥鰌を丸ごと鍋に入れてグツグツ煮るのに抵抗があるらしい。
幕末生まれの文人・淡島寒月(あわしまかんげつ)は、「今日では通(つう)がって泥鰌の丸煮などを喰う者もあるが、これは江戸趣味ではないのだ」(『梵雲庵雑話』)と言っている。寒月の母親が泥鰌の丸煮を食べていたら、やってきた鳶人足(とびにんそく)が、「わたしらのような下々の者でも、骨のついた泥鰌(さばいて開かず、そのままのもの)は食べませんよ」と言ったとも書いてある。
泥鰌の踊り喰いなどは、江戸趣味ではなかったようだ。若い女性たちの感覚こそ、案外江戸趣味に近いのかもしれない。

大鍋のどじょう汁をどんぶりにつぐ主人と、姉さんかぶりで給仕するおかみさん。客は縁台でくつろいで汁を食べている。浪人者だった主人が一念発起してはじめた店は大繁盛。看板には「やなぎばし どじやう御吸物 壱ぜん十六字(文)」とある。(『京鹿子娘泥鰌汁』、国立国会図書館蔵)

芝全交…1750~93。江戸後期の戯作者。滑稽洒脱な黄表紙を得意とした。

淡島寒月…1859~1926。日本橋生まれの文人。江戸文学を愛好して、元禄時代の作家・井原西鶴の価値を再発見し、尾崎紅葉や幸田露伴らに伝えた。

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