第 7回 大掃除と忠臣蔵

 暮れの12月13日というと、江戸では大掃除の日で、どこの家もてんてこ舞いだった。これが終わるといよいよ年末の大晦日(おおみそか)と正月を迎えるわけである。大掃除は、竹箒(たけぼうき)で天井の煤(すす)を払ったりするので、「煤払い」とも呼ばれていた。
 一家総出で「煤払い」が無事に終わると、家人の誰彼となく胴上げされる習わしがあった。ふだんは嫌なことばかり言って叱る番頭が胴上げされて、放り上げられたまま落下させられたり、ツンとすましている若い女性の奉公人などは、裾(すそ)がめくれて恥ずかしくなるように胴上げされたりという光景もあったようである。
 「煤払い」は、武家の屋敷でも行われていた。
 赤穂浪士(あこうろうし)たちは、本所(ほんじょ)松坂町の吉良邸の「煤払い」から翌日の茶会に吉良上野介(きらこうずけのすけ)が出席することを確認し、翌14日に討入りすることにしたのである。
 吉良邸を、煤竹(竹箒)売りに変装して監視していたのが、大高源吾(おおたかげんご)であった。子葉(しよう)という俳号をもつ彼は、両国橋で師匠の榎本其角(えのもときかく)とバッタリ出会った。其角の詠んだ上の句「年の瀬や水の流れと人の身は」に、「あした待たるるこの宝船」と源吾が下の句をつけたことで、其角は明日が討ち入りだとピンときた。
 はたして翌日、元禄15年(1703)12月14日、寅(とら)の上刻(じょうこく、午前4時頃)に赤穂浪士は討入った。正確に言えば15日の午前4時頃ということになるのだが、江戸時代は卯(う)の刻(午前6時頃)から一日が始まるとされる習慣があったから、まだ12月14日であった。
 12月半ばというのに雪の中の討入りで、江戸時代はさぞや寒かったと思われるだろう。しかし、討ち入りの12月14日は陰暦であって、太陽暦でいえば翌年1月30日になる。新聞の見出し風に表現するならば、「1月31日未明、赤穂浪士討入り」となり、雪の日であっても不思議ではないのである。

赤穂浪士の討ち入りと料理のパロディ作、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙『忠臣蔵即席料理(ちゅうしんぐらそくせきりょうり)』より。四十七人の料理人が美味い料理を作り、腹いっぱいの家来たちを追いかけ回して無理やり食べさせるところ。ラストは、満腹で炭部屋に隠れた殿を探し出し、「もう一膳」と迫る。(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)

赤穂浪士…赤穂義士。吉良義央を襲って主君の仇を討った旧赤穂藩士47名。

榎本其角…1661~1707。江戸前期の俳人。芭蕉に学び蕉門十哲のひとりとなる。芭蕉没後、軽妙で洒落た俳諧の一派、江戸座をひらいた。

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