第11回 雛祭り


 3月3日は雛(ひな)祭り、女の子のつつがない成長を祝って内裏雛(だいりびな)などを飾っておこなう年中行事である。江戸時代には「上巳(じょうみ)の節句」とも、「桃の節句」とも呼ぶようになった。庶民が子どもの成長を願ってする雛流しや、宮中の女の子がする雛遊び(ままごと遊び)が起源だったようで、雛遊びは『源氏物語』などにも見える。江戸時代になってから、3月3日の雛祭りとなり年中行事化したわけである。
 雛人形について徳川幕府は、慶安2年(1649)2月に、金箔や銀箔を塗った華美な雛人形にすることを町触(まちぶ)れで禁止しているから、この頃にはすでに綺麗に着飾った人形になっていたことがうかがわれる。さらに享保の改革のさなか、享保6年(1721)7月には、雛人形のサイズを八寸(約24㎝)以下にするようにとの町触れが出されている。これ以後、幕末までサイズは八寸以下と定められている。現在の雛人形の大きさにも、このときの名残りがあって、これが大きな雛人形のひとつの基準になっている。
 面白いところでは、安永8年(1779)2月に出た町触れで、豪華な雛人形を家に飾り、往来の人びとにも見えるように障子(しょうじ)などを開け放って見せびらかすことを禁じている。三段飾りや五段飾りとか、町人のあいだでは豪勢な飾りを競っていたことがわかる(図版参照)。いかにも当時、田沼時代のバブル経済の時代を反映している。本来の女の子のつつがない成長を祝う素朴なお祭りの意識が消えて、とにかく立派なものを誂(あつら)える、現代の風潮にも似たようになっていたことがうかがえるのである。
 江戸の雛人形の売り出しの雛市は、十軒店(じっけんだな、今の中央区室町)の人形問屋街で開かれてにぎわった。5月の端午(たんご)の節句の兜(かぶと)人形もやはり十軒店で売られた。
 松尾芭蕉(ばしょう)が「おくのほそ道」の旅(元禄6年〈1693〉~)に出るとき、世を捨てたような自分が住んでいた草庵に、こんどは娘のある人が住むことになったと聞き、きっと雛人形を飾り華やかになるだろうと、「草の戸も住み替わる代(よ)ぞ雛の家」の一句を残して長旅に出た。この頃から、雛飾りがだんだんと豪華になりだしたようだ。

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竜宮城の乙姫(おとひめ)の家。浦島太郎の人形を雛壇に飾ろうとしている乙姫(右)と浦島(左)。豪華な雛棚の供え物には、白酒や、竜宮ならではのタイやサザエやハマグリなど。(『二度目の竜宮』安永9年刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)
享保の改革…八代将軍・徳川吉宗(よしむね)の行なった幕政改革。綱紀粛正(こうきしゅくせい)、質素倹約、農村対策など、政治・財政の立て直しをはかった。
田沼時代…田沼意次(おきつぐ)が、十代将軍・徳川家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として政治の実権をにぎった、明和4年(1767)~天明6年(1786)をいう。経済の発展を背景に、新しい文化が発達した。

第11回 雛祭り
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