第113回  江戸っ子と傘と日傘

ツツジとサツキの花が終わると間もなく梅雨入りだが、今年は空梅雨でもなさそうな予報だから、にわかの天候変わりに備えて傘を持ち歩かなければいけない季節でもある。最近では梅雨入り前の突然の猛暑に襲われ、傘が日傘に変わることもあるので、江戸っ子の傘と日傘事情について書いてみようと思う。
江戸時代も平和になって少しずつ豊かになってきた万治2年(1659)、町中を傘を「振り売り」する商売人(日傭人。ひようにん)たちが多くなり、その日傭人たちに幕府は鑑札を渡して管理することになった。寛文5年(1665)に日庸座(名主が兼務し日傭人を管理し、鑑札一枚につき一か月24文〈もん〉を徴収した)を設け、その後、実に150年近く日庸座は日傭人たちを管理し、寛政9年(1797)に日庸座は廃止される。
このあいだに江戸でも傘職人たちが育ち、傘を売る店もできて組合(株仲間)も結成されるが、江戸で傘が贅沢品でなくなったのは田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代(1772~86)の消費文化が花開いた時期のことだが、江戸以外の農村部では傘はまだ贅沢品として制限されていた。しかし、農作業を傘を差しながらするわけにはいかなかったから、そんなに苦情が出るわけではなく、農村では昔ながらの笠を被り蓑(みの)を着て出掛けるのが主流であった。
世の中は皮肉なもので、田沼時代、お供の小僧に傘を持たせ、加賀国(石川県)産の上等な蓑を着て笠を被り、遊所である深川へ遊びに行く遊び人もいた。これは、わざわざ雨の日に通ってきたという、深川芸者にアピールするための手段でもあった(図版参照)。
傘を差して道をすれ違うとき、お互いに傘を傾けてぶつからないようにするのを「江戸しぐさ」などと表現していた人がいたが、実は江戸では狭い道を譲らず傘をぶつけあって喧嘩(けんか)することが絶えなかった。気が短い江戸っ子は喧嘩早い。だが、降る雨の中で喧嘩をしていたのでは濡れてたまらないから、喧嘩腰で悪態の一言を言い合って別れた。
これが日傘になると、ぶつかっても濡れる心配がないから、怒鳴り合いがはじまる。このマナーの悪さによって風紀が乱れることに業(ごう)を煮やした幕府は、文政11年(1828)8月、体の弱い女性や子供、医者を除いて日傘を差すことは自粛せよと町触れを出している。しかし、いったん流行したことは止むことがなく、それから天保2年(1831)6月まで立て続けに3度も、日傘を差して外出することを禁止する町触(まちぶ)れが出された。
それでも日傘でのトラブルは多発した。ついに幕府は見せしめもあったのであろう、翌7月11日の午後2時、三味線弾きが日傘を差して外出したとたん、町廻りの役人が逮捕し手鎖(てじょう)をかけ町役人(ちょうやくにん)も呼びつけ、白洲で過料(罰金刑)3000文を申し渡す。現代のお金に換算すると5万円くらいの罰金になろうか。
この処罰された三味線弾きは大坂出身で江戸へ出て来た者だった。だから、どうも日傘禁止令のことをよく知らなかったらしい。伝統的な商業都市の大坂では、傘や日傘を差すマナーは悪くはなかったが、江戸という町は未熟な新興都市で、傘や日傘を差すマナーは芳しくなかった。それだけ江戸っ子は気性が荒く喧嘩早かったということにもなろう。

第113回図版

上等な蓑を着て笠を被り、お供の小僧に傘を持たせ、遊所である深川へ遊びに来た遊び人(恋川春町画作『金々先生栄花夢』安永4年〈1775〉刊より)。

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