第117回 キモノとキルモノ、左前

 浴衣(ゆかた)の季節である。若い人たちもこの時期の花火大会見物にはキモノに親しむようだ。

 今日では着物を「キモノ」と呼んでいる。洋服に対する和服という意味でもキモノと言う。江戸時代では「キモノ」ではなく、「キルモノ」とも呼んでいた。

 井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』(天和2年〈1682〉刊)には、「白ぬめの着物(きるもの)給(たまわ)り」と、「キルモノ」と振り仮名をしている。また、江戸初期の辞書『日葡辞書(にっぽじしょ) 』にも「Qirumono(キルモノ)」は衣服のことと出ているし、別に「キリモノ」とも呼んでいたとも出ている。1800年代の山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)にも着物のことを「キルモノ」と呼んでいるから、江戸時代を通じて着物は「キルモノ」とも呼ばれていたことがわかる。

 今はもう銭湯(せんとう)も少なくなったが、銭湯へ出掛ける女性たちのなかには、着替えの浴衣を風呂敷に包んで持って行く姿が、式亭三馬(しきていさんば)の『浮世風呂』の口絵に載っている。

 この「着物(キルモノ)」というのは、江戸時代にあっては「小袖(こそで)」とも呼んでいて、そもそも現在でいう着物(小袖)が外装になったのは江戸時代になってからとされる。それまでの室町時代には、着物(小袖)は下着であった。もともとは湯上がりのときだけ直接肌に触れる下着として着るものだった浴衣が、今では外出着となったことと似たような経過をたどっている。

 小袖や浴衣などの着物が江戸時代に外装着となったのは、どんな経過をたどったのか不明だが、やがて「右前(みぎまえ)」に着るようになったと考えてよかろう。おそらく右前に着ることで、機能性の上で利便な点があるからそうなったわけで、日本人は右利(き)きが多いこととも関連するのだろう。もちろん男女共に右前に着るようになった。

 近頃では、右前なのか左前なのか着物の着方に迷う若い女性もあらわれたようなので、簡単に説明しておくと、着物の衽(おくみ)、つまり襟(えり)から褄(つま。すそ)にかけての着物の右縁(へり)を左の(内側)になるように先に入れて、この上に左縁を重ねるような着方で、体の右側に着物の左縁を重ねるから右前が開くようになる。図版を見てほしい。夕涼みに歩く人々の着物は、男も女もみな右前に合わせられていることがわかる。

 この逆の着方をするのが「左前」と呼ばれるもので、死人の着る経帷子(きょうかたびら)だけが「左前」なのである。今でも、葬式で亡くなった方に白い着物を「左前」に着せているのをご覧になったことがあるだろうが、あれである。

 洋装(洋服)では男性の着方であるが、女性の洋服が輸入されるようになったら、女性服だけは逆になった。もっとも、近頃ではジーパン文化になったせいか、女性でも男性とおなじ仕立てのジーンズを穿くようになった。花火大会などで若い女性の浴衣姿を見ていると、「左前」に着ているのを見かけることがしばしばある。左前に着るのは死んだときの経帷子だけだと野暮なことは言わないが、右前のジーンズを穿く時代、浴衣もおなじにすればいいのにと思う。

 最近では、「左前」というと経済用語のようになった感がある。あの企業(会社)は業績が悪くなり、「左前」だというような使われ方が多いようである。西鶴の浮世草子にも、商売の経営がうまくゆかずに「左前」になると出てくる。

 

第117回図版

 
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夕涼みに隅田川河畔を歩く人々。『絵本物見岡(えほんものみがおか)』(天明5年〈1785〉刊)より。
井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。庶民の生活を写実的に描いた浮世草子の名作を多数書いた。ほかに『日本永代蔵(にほんえいたいぐら)』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』など。。
『日葡辞書』…慶長8年(1603)にイエズス会の宣教師が編纂刊行した日本語辞書。当時の発音がわかる貴重な資料。
山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。遊里を写実的に描いた洒落本(しゃれぼん)、大人向けの絵入コミック小説・黄表紙の第一人者。
式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者。『浮世風呂』(初編文化6年〈1809〉~4編文化10年〈1813〉刊)は、銭湯を舞台にした代表作。
 
第117回 キモノとキルモノ、左前
そのことば江戸っ子だってね!? ライン