第126回 火事と喧嘩は江戸の華

 古今亭志ん生(五代目)は落語のマクラで、「江戸名物、武士、鰹(かつお)、大名小路、広小路、茶店(ちゃみせ)、紫、東錦絵(あずまにしきえ)、火事と喧嘩と中ぅ腹、伊勢屋、稻荷に犬の糞」と江戸名物をあげた。

 江戸名物の「火事と喧嘩」のうち、喧嘩は騒動だけで済むことがおおかったが、さて火事となると命と財産を失うことにもなるので大変である。

 火事に備えて吉原では、いざという時のために屋根に天水桶(水溜桶)を設置していたことは先に紹介した(第14回)。吉原の屋根がトントン葺(ぶき)(木っ端屋根)であったが、なぜ瓦(かわら)葺にして防火に備えなかったのか、その理由はよくわからない。

 町家の場合、トントン葺の屋根だったのは、瓦屋根は贅沢(ぜいたく)だと規制されていたからであり、柱を太くしなければならず建築費が高くなるからでもあった。

 享保の改革(1716~36)ではトントン葺の屋根は、火事の多い江戸では防火のために無防備だと、以後は瓦屋根を奨励するようになり、武家屋敷はおおく瓦屋根になる。そしてトントン葺きの屋根には天水桶を設置するよう幕府は、たびたびお触れを出して指導している。その半世紀後の享和元年(1801)10月には、かなり厳しく天水桶を設置するようにお触れを出しているが、皮肉にも、そのすぐあとの文化3年(1806)3月4日には、死者千人を超す大火(牛町火事)に見舞われている。

 この火事で、龍吐水(りゅうどすい。手押しポンプ。図版参照)がどれほど活躍したか実態はよくわからないが、この頃はまだ、町内ごとに設置されている天水桶は数カ所、龍吐水も1台や2台しか用意されていなかったから、水をかけて消火するより、延焼をくいとめるために、家を取りつぶす破壊消火活動が主力であったろうと考えられる。

 この龍吐水が発明されたのは寛延年間(1748~51)頃のようで、野島屋敷佐右衛門(しきざえもん)方に勤めていた善左衛門という者の発案だといわれる。ただし、一台の値段が6両2分(6.5両。現代の価格にすると7、80万円くらい)だったという。

 はじめ幕府は積極的に龍吐水の導入を支持していない。その理由として、龍吐水は壊れやすいのに値段が高く購入費がかさみ、火事に際し出動する万一の事態に備え、人足をふだんから確保しておく維持管理費がかさむこと(これら経費を負担するのは幕府ではなく各町内)、そして火事場では荷物を持って避難する人びとの邪魔になることを挙げている。

 ところが、幕末になると様子が少しかわり防火意識が高まってくる。各町内の路地の裏うらにまで天水桶が設置され、龍吐水も辻つじに配置し、玄蕃桶(げんばおけ。水を入れ担いで運ぶ桶)が用意され、水の確保ができるようになった。また、龍吐水を使える町内の自警団も結成され、火災が大規模になるのをかなり未然に防げるようになったのである。

 11月の酉の市が3度ある年は火事が多い(酉の市が3度ある年は吉原が焼ける)との俗信がある。今年の暦(グレゴリオ暦)では二の酉(とり)までしかない。旧暦(太陰暦)でも二の酉しかないから、今年はぜひ火事のない穏やかな年の暮れを望みたいものである。

 
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編年体で歴史の変遷を記すのを「年代記」といい、子供向けの絵入り本である赤本からはじまり、青本・黄表紙と変遷していった「草双紙」の歴史をたどって見せたのが、この『草双紙年代記』(岸田杜芳作・北尾政演〈山東京伝〉画。天明3年〈1783〉刊)である。四位の少将兼連が稲光(いなびかり)をさせ雷の太鼓を合図に、天から雨を降らそうと、竜吐水や竹筒で水を天に噴き上げさせる人々の努力が実り、大雨が降るという諧謔(かいぎゃく)場面。二人での手押しポンプが竜吐水。
 
第126回 火事と喧嘩は江戸の華
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