第13回 江戸の花見

 桜の開花予想などが出てくる季節になると、江戸っ子ならずとも、どこか浮かれた気分になってくる。その浮かれ気分が花見酒となるせいで、昨年の東日本大震災(3・11)の直後、東京でも花見が自粛されたことは記憶にあたらしいところである。
 花の季節といえば、西行(さいぎょう)の「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ」という和歌を思い起こすむきもあろう。西行は果たして願い通りに、文治6年(1190)2月16日(旧暦。太陽暦では3月30日)、桜の盛りに73歳で亡くなっている。
 さて、江戸の花を詠んだものといえば、やはり芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」であろう。隅田川河畔にあった芭蕉庵から、上野や浅草方面に霞(かす)んで見える白い桜の花を眺めながら、聞こえてくる時の鐘は、上野寛永寺の鐘か浅草寺(せんそうじ)の鐘だろうかと、芭蕉は聞いていたのである。
 このとき芭蕉が眺めた桜は、ソメイヨシノではなく山桜の一種だった。ソメイヨシノは花が咲いてから葉がつくが、山桜などは花と葉が同時にでてくるので、私たちがイメージする花見の桜の風景とはだいぶ異った趣であった。寺社や大名屋敷の甍(いらか)が並ぶなかに、桜の木の緑の葉にかこまれて、白い花がぽっかり浮かぶように見えたのが、江戸時代の桜の花の眺めなのである。
 江戸の桜の名所といえば、やはり上野の山が代表的であった。あるいは、王子の飛鳥山(あすかやま)。浅草寺の裏手の千本桜も有名だったが、これが植えられたのは享保18年(1733)だから、芭蕉が没したあとなので芭蕉は見ていない。
 この千本桜は、吉原の遊女たちが寄進したもので、その木々には遊女の自筆の札が下がっていたという。翌年春には、花と遊女の筆跡を、江戸っ子たちは楽しんだわけである。もちろん吉原では桜の季節になると、メーンストリートに桜の木々をわざわざ植樹して、盛大に花見をしたものだった(図版参照)。
 玉川上水が流れる小金井(こがねい)の土手も、桜が植えられて名所になった。隅田川の川堤に桜が植えられたのもこのころ、享保年間(1716~1736)である。八代将軍吉宗などは、桜をはじめ植樹を盛んに行なった。
 これは、植樹をして土手を固めて強化しようとしたことによるようだ。「桃李(とうり)もの言わざれどもおのずから蹊(みち)をなす(桃やスモモは何も言わないが、その花にひかれて多くの人が集まる)」(『史記』)という思想からなのであろう。こうして、桜見物に人が集まることによって地面が固まるという発想で、江戸の各地に次々に桜の木が植えられていったのである。
 品種改良がすすんで多くの花をつけるようになった桜は、もともと日本人の心にひびくものでもあって、格好の植樹の木となった。

吉原の花見。毎年、桜の木がメーンストリートいっぱいに植樹され、花見の宴がくりひろげられた。(『江戸名所花暦』巻1)

西行…1118~1190。平安末期、鎌倉初期の歌人。俗名・佐藤義清(のりきよ)。鳥羽院に北面の武士として仕えたが、23歳で出家。陸奥(みちのく)から中国・四国までを行脚(あんぎゃ)してまわり、歌を詠んだ。歌集に『山家集(さんかしゅう)』など。

八代将軍吉宗…徳川吉宗。1684~1751。享保元年(1716)、紀州家五代藩主から将軍となり、幕政や経済の立て直しをはかって「享保の改革」を行なった。

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