第14回 菜の花と吉原

 東日本大震災で被害にあった東北地方でも、菜の花が咲き、桜の季節を迎えるころとなった。復興は牛の歩みのようだが、かくじつに春はやって来る。
 落語の「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」(別名「かぼちゃ屋」、「唐茄子屋」とも)には菜の花の句が出てくる。その噺のあらすじを、まず紹介しておこう。
 吉原遊びで散財ばかりして勘当(かんどう)された若旦那は、あちこちで居候(いそうろう)も断られ、とうとう誰も助けてくれる人がいなくなる。三日間、飲み食いもできず、思いあまって吾妻橋(あずまばし)から身投げしようとするところを、叔父(おじ)さんに助けられる。
 叔父さんは、若旦那に天秤棒(てんびんぼう)をかつがせ、唐茄子(かぼちゃ)の振り売りをさせる。日も照り、慣れない力仕事でフラフラになった若旦那が道に転んでいると、親切な人に助けられ、その人が若旦那に代わって唐茄子二つを残して全部売ってくれる。それから若旦那は元気も出て、売り声も出せるようになり吉原の近くまでやって来る。
 思わず若旦那は、「菜の花やむこうに蝶(町)の屋根が見え」という句を口ずさむ。あのなつかしい吉原が、目の前にあったのだ。落語はこのあと、若旦那が誓願寺店(せいがんじだな)の貧乏なおかみさんを助けて、勘当がゆるされて終わる。
 「菜の花や…」の句は、菜の花畑を舞う「蝶々」と吉原のことをさす「町(ちょう)」という言葉を掛けている。「町」とは、吉原などの官許の遊里をいう「御町(おちょう)」を略したもので、江戸時代も半ばをすぎると、たんに「町」と言えば「吉原」をさしていた。
 吉原の屋根の上には、天水桶(てんすいおけ)が設置されていて、その形が独特であった。天水桶とは、雨が降るとふたを開けて水をため、消火用の水を常備するものである。江戸時代は火事が多かったから、町中に天水桶が置かれていた。だが、吉原のように屋根の上にあるのは珍しく、さらに、図版の左上に見えるように、この天水桶には熊手(くまで)のような形をした火消し道具がついていて、遠くから見ると、これが蝶々のように見えたのである。
 吉原通いの客たちは、この蝶々のある屋根が見えてくると、吉原にやってきたのだと胸をときめかせたにちがいない。「菜の花や…」は、その風情をよくあらわした句であった。吉原の屋根と町家や武家屋敷の屋根との違いを知って、この話を高座にかける落語家は少ないかもしれない。
 吉原は、浅草の北に広がる吉原田圃(たんぼ)と呼ばれる田園の中にある一大歓楽街であった。広さは約9ヘクタール(約2万7千坪、東京ドーム約2個弱くらい)。その周囲は、遊女が逃げ出さないために塀で囲まれていて、出入口は大門口(おおもんぐち)1つだけだった。その大門口へは、吉原田圃の中の一本道だけが続いていた。
 1800年ごろ(寛政年間)には、遊女3千人を含め、およそ9千人が吉原で生活していたという。遊客を含めると、1万人以上の人々が集まる場所だったわけだ。周囲が塀に囲まれていて、出入口が1つしかないという、逃げ場のない所だっただけに、火事には神経をつかった。いざ火事になると、自警団(じけいだん)の男たちが屋根に上り、延焼を防ぐために、遠くからは蝶々のように見える天水桶の火消し道具を使って、消火・防火活動をしたのであった。

吉原に通う客たち。「亀屋頭巾(かめやずきん)」あるいは「目ばかり頭巾」と呼ばれる頭巾をかぶって人目をしのんでいる(じつはかえって目立つので得意になっている)客が描かれている。左上の屋根の天水桶には蝶々のような熊手がついていて、ひと目でそこが吉原だとわかる。(『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(安永4年〈1775〉刊)、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)

ほかのコラムも見る