第17回 山王祭と喧嘩


 江戸時代の年中行事では、6月には神事の祭礼がおおく、なかでも6月15日の山王祭(さんのうまつり)神田祭(かんだまつり)は、江戸っ子たちの待ちに待った祭礼であった。
 天和元年(1681)からは、山王・神田の隔年開催となった。山王祭は、丑・卯・巳・未・酉・亥年におこなわれ、神田祭は、子・寅・辰・午・申・戌年におこなわれていた。明治25年以降は、神田祭は5月に行われるようになった。
 さて、祭りでつきものなのが、喧嘩(けんか)であろう。町内ごとに覇(は)を競うように派手にふるまうために起こる喧嘩もある。
 江戸にあっては、祭りは、とくに勇(いさ)み肌の町火消(鳶〈とび〉)人足たちにとって、荒っぽい俠(きお)いの見せ場でもあった。
 寛政9年6月15日(太陽暦でいえば1797年7月9日)、山王祭の麹町(こうじまち)の神輿(みこし)が小舟町(こぶなちょう、中央区日本橋)にさしかかると、火消人足の「に組」と「よ組」とのあいだで口論、喧嘩があった。これは、よくあることだった。
 ところが、この喧嘩を、戯作者(げさくしゃ)の式亭三馬(しきていさんば)が『俠太平記向鉢巻(きゃんたいへいきむこうはちまき)』という黄表紙(きびょうし)にあらわして、寛政11年の正月に「実伝」と銘打ち、版元西宮新六より刊行した。
 それには「よ組」が負けたように書いてあったから、「よ組」は怒って西宮の店と三馬の住宅を襲って破壊してしまった。すると、これに「に組」も負けてはいない。「よ組」への対抗心丸出しにして、『俠太平記向鉢巻』を売り出している草双紙屋を2軒ほど壊してしまった。
 これを聞きつけた町奉行は双方の当事者を召喚し、それぞれの首謀者は敲(たた)きの刑罰のあと江戸払いとなった。
 しかし、話はこれで終わらない。山王祭の喧嘩の現場が小舟町だったものだから、今度は、小舟町を火事の持ち場(縄張り)にしている「は組」が黙っていなかった。
 俺たちのテリトリーで喧嘩したのに、「に組」と「よ組」から挨拶がないというわけなのだ。「は組」の血の気の多い者たちは、双方を懲らしめてやろうといきり立ち、それを止める穏健派の家を壊す騒ぎとなってしまった。この連中も町奉行から同じ処罰を受けている。
 もともとの喧嘩がわるいのか、それともこの喧嘩をネタに黄表紙を書いた三馬にも非があるのか、判断はむずかしい。しかし、この騒動一件で、戯作者式亭三馬の名が江戸っ子たちに知れわたることになったことだけは確かである。

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山王祭でにぎわう南伝馬町(みなみでんまちょう、中央区京橋)。右下には、大伝馬町(おおでんまちょう、中央区日本橋)の山車(だし)が通る。この上に見える太鼓と鶏の装飾は、「諫鼓(かんこ)の鶏」と呼ばれて有名だった。「諫鼓」とは、昔、中国で朝廷の門外に設けられた太鼓で、政府に諫言(かんげん、いさめる言葉)を述べたい人民に叩かせたもの。江戸っ子にとって、「諫鼓の鶏」といえば「山王祭」だった。(上図は『東都歳時記』、下図は『天下一面鏡梅鉢』より)
山王祭…千代田区永田町にある日枝(ひえ)神社の祭礼。今年は6月7日(木)~17日(日)に行われ、8日(金)には神輿が渡御する。
神田祭…千代田区外神田にある神田神社の祭礼。
式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者。髪結床(かみゆいどこ)や銭湯での庶民の会話を活写した滑稽本(こっけいぼん)『浮世床』『浮世風呂』などで有名。

第17回 山王祭と喧嘩
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